山本理顕さんの、建築家としてのキャリアをスタートさせた「山川山荘」。
その始まりで既に、大きな問題意識で設計をされていた。

家とはなにか?です。

家とはなんのためにあるのか?です。

普通、建築家というのはこんなことは考えない。
家は住むためのものじゃないか。
家は家族のためにあるんじゃないか。
で済ませる。

そして、建築家は依頼主のために設計をして報酬を得る。
そう考えて、日々また建物の設計をしているのが普通です。


しかし、理(ことわり)を顕(あきらか)にする理顕さんは違います。
次の問いが生まれる。

住むとはなにか?
家族とはなにか?

です。

住むとは?うーん、生きること?生活するための拠点に居ること?
家族とは?あらためて聞かれるとなんだろうか?肉親?

というところで、普通は詰まってしまう。

理顕さんは違います。
もっと全体を見つめる。
小さな家であっても、その家を成り立たせている全体像と仕組みまで、細かなところまで見る。
顕かは顕微鏡の顕ですからね。
 

その結果、「家」というものを、それだけで考えてはいけない。そう考えることはおかしい。
「家」を依頼された施主のためだけ、建設された敷地の中だけ、で完結的に考えてはいけない。
それは建築家のフィクションである。
そう、提唱されています。

ちょうど、人とは何か?を考えるときに「人」=「個人」と捉えてはダメなのと似ています。
人とは何?と問われたら、まずは私とか貴方とか、個人から発想しますよね。
だから個人でいいんじゃない?、人を考えるときに個人から始めちゃいけないの?
と思いますが、それですね、ダメなんです。

「個人」というのは、いわゆる「人の存在形式」ではないからです。

「個人」とはなにか、個人は一人のこと?集団から離れた人物?
「個人の意見」とか、スポーツの「個人戦」とかで使われる用語ですが、
「個人」のみを考えていては、「個人」から出発しては「人」を現せない。

人は「個人」では存在していないからなんですね。
「個人」では、基本、食料も調達できないしよっぽど条件がそろわないと生き残ることも出来ません。
「個人」という単位では人は存在していないのです。
人は社会性生物なので、社会がないと存在できないからです。

社会性生物とはアリやハチなどもそうですが、個体を生体機能として研究対象とすることはできますが、
個体のみでアリやハチの実体は推し量れない。
アリやハチを一匹だけ飼育するとか、一匹のアリでアリの生態を理解することはできません。

人も同様です。
個人とは集団であることの人の社会的関係から生み出された「概念」であり、実体ではないのです。

人とはなにか?と問われたら「人類」とまずは考えるべきで、
「人類」と考えた場合には当然、その生存形態として集団や環境や歴史などまで幅広く深く考えることができる。

同じように、「家」でも「家庭」でもなく、
人類が生存する空間として、「生活圏」と考えましょうと言われている。

金を払う施主個人のための家をつくるのではなく、

人類のための生活圏を考える人、それが理顕さんが定義する建築家です。

どうです?すごーっく、スケールが大きくなってきませんか?



小さな10坪ほどの家であっても、
「予算が厳しい都市のスモールハウスのデザインをします」で済ますのと、
「人類の生活圏としての大都市を構成する小規模の生活圏を入れ子状に経済循環させる」と考えるのでは、
まったく、立脚点が変わってくる。

俯瞰的視点が生まれますよね。
同時に、微細な対応も必要になる。

そのような視点があるからこそ、このような家が構想できるんです。

山川山荘とは、「山の中に小さな生活圏を構築したものです。」

 

非常にしっくりきません?
なるほど、そうか、そうなのか、だから山の空気が流れてこなくちゃならないんだ。
と納得できますよね。

つづく