今日やっと「マンガ建築考」の原稿すべて入稿いたしました!
今月中旬に発行予定なのですが、内容の半分以上は書き下ろしです。
「ワンピース」や「花より男子」、「漂流教室」、「童夢」、「島耕作シリーズ」、「彼岸島」、「らき☆すた」などについても建築的考察を試みてみました。
表紙は若林健次先生による「ドトウの笹口組」復活劇です。

で、天顕祭の続きです。
一方、今から数百年後の未来の日本なのかもしれないのですが、
白井先生描くところの天顕祭はつい最近まで日本の村落共同体でどこでも見られたような普通の風景が生々しいです。
私の故郷である岡山県では、備中神楽というのがありましてこれは7年とか13年ごとの大祭があるのですが、
荒神さま(こうじんさま)という荒い神、悪神が猛威を振るうのを治めるための祭りです。

天顕祭のストーリーで秀逸なのは、「汚い戦争」と呼ばれるおそらく核戦争の後の世界を描いていまして、
核に汚染された世界が徐々にその浄化を進めているという設定の世界です。
そこでは、核汚染された地域や物を「ふかされた」という表現で表されており、
どうやら、この世界は核の影響に恐れおののいている状況です。
ここで示されているのは、神の生成や宗教感の醸成において重要な「畏れ」の概念を如実に表していることです。

宗教の成立過程において一般的に見られるのが、いわゆる「病気治し」なんですね。
不治の病を治したとか、鬱々とした精神を晴々解放したとか、引きこもりを解決したとか、
そんなところから始まる新宗教というのは非常に多いんです。
ていうか、明治以降の新宗教ブームはほぼそうでしょうね。
実は私は宗教という表現フォーマットを研究したこともありまして、大体そのほとんどは
宗教といいながら現世利益を求める信者の群れに君臨するカリスマ教祖という感じでしょうか。
このパターンはそもそも日本の伝統とは異なったパターンだと思うんです。

日本における宗教感というのは具体的の教祖だとか、守るべき教義だとかを前提としない。
何かわからない得体の知れない超越的存在を常に意識するところから始まる初源的な発想だと思うんです。
つまりは、ご飯を残すとご飯粒の神さんに怒られるよとか、
さんざん使い倒したまな板なんかを捨てるときの後ろめたい気持ちとか、
夜に渡り廊下を通って便所に通うときの庭木の姿に恐れおののくとか、
そんな、ありえないはずなのに心が動いてしまう現象、状態、それをきめ細かく拾い出したものが
日本における八百万(やおよろずの)神だと思うんですね。

そういった意味では、村落に災疫をもたらす何か、それを荒神さまと呼ぶことで鎮魂する。
その行為、文化といったものが原初的な宗教感の美しさを醸し出す。
それが天顕祭ではうまく表現されています。

人体に障害をもたらす可能性のある「フカレ」という放射性物質を封じ込めておきたい。
そのために「フカレ」たエリアや物体を永続的に封印保存する意味での地の穴。
そこで行われる祭りとそれを守る神主という構図が、放射能汚染という近未来的なテーマを、伝承的な世界観に回収することに成功しています。

しかも、そこに救いがある。
放射能に犯されたエリアに生えてきた竹、その竹が地盤に染み込んでいるであろう
「汚れた戦争」の残滓である「フカシ」を吸い上げ取り込んでいくという設定と、
その竹を使って足場を組む鳶の姿です。

神話的な世界観をさらりと日常に取り込むことに成功しているのがまたしても鳶という職種です。