2月27日(水)


 相変わらず、絵手紙1日1枚を日課としていますが、こういうのは良くありませんな。日課とか習慣とかマニュアルというのは昔から小生の性分に合いません。常に変化を。そこで、思い切って「版画」を彫ってみようと言う気になりました。素養があるわけではありません。小学生以来のこと。なのに版画を。実は先日「落款」を作り直そうとユザワヤで新しい彫刻刀と版木(木製とゴム製2枚づつ)を買い、余っているからです。ま、ヒマつぶしですな。


 さあ、何を彫るか?私のお気に入りの石仏に「半跏思惟像」があります。「半跏思惟」と言うのは、片足を他の足の腿の上に組んで座る座法。そして、右手を頬に当てて思考する姿。


モルヒネ日記  モルヒネ日記

これは、京都・太秦にある「広隆寺」にある半跏思惟像(正しくは弥勒菩薩半跏思惟像)日本で最初の国宝

 しかし、私が最初に見たのは、こんな立派なものではありません。

軽井沢で見た半跏思惟像でした。


モルヒネ日記  モルヒネ日記

これは、軽井沢で療養生活を送っていた堀辰雄(「風たちぬ」「美しい村」「菜穂子」などの小説がある)がこよなく愛したという半跏思惟像です。


「軽井沢」は中山道の宿場として栄えたところで、中山道と北国街道の分岐点に当たります。

中山道は「中仙道」(なかせんどう、なかさんどう、などと読む場合もあります)と書く場合もありますが、正しくは「中山道」と書き「なかせんどう」と読みます。「木曽街道」「木曽路」などの愛称もあります。


 そして、軽井沢に「追分の宿」があり『分去れ』の大きな石碑が建っていて<さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿>と刻まれています。


 中山道・木曽路は今も昔の面影を色濃く残している宿場がいくつか点在しています。その中のひとつ

「馬籠宿」で島崎藤村が生まれ育ちました。その生家も残っています。

 島崎藤村の小説に「夜明け前」がありますが、その冒頭に「木曽路はすべt山の中」とあります。

険しい峠道が続きますが、昔は30あまりの大名行列が行き来して、女の旅人が多く「姫街道」などと呼ばれました(幕末、京都から皇女・和宮が江戸に輿入れする時は大行列だったそうですよ)

その訳は、東海道は大井川などの川止めがあり日数がかかり、日程が狂うし費用も重なります(ま、江戸幕府はそれが狙いで大名に金を使わせたんですがね)


 さて、そんな中山道の軽井沢・追分の宿ですが、そこで堀辰雄は療養していたので今は「堀辰雄文学記念館」があります。、その近くに「泉洞寺」という小さなお寺があり、その一画に先程紹介した「半跏思惟像」が密やかに、静かに、優しく佇んでいます。

なんの変哲もない名もなき小さな石仏ですが、それを初めてみた時は何故か心惹かれるものがありました。以来、各地を旅して通りすがりの街道筋や村はずれの田舎道や小さなお寺の境内などで「半跏思惟像」を見るようになりました。(信州・安曇野の石仏群の中には結構あります)

 そんな事を思い出して、「半跏思惟像」を彫ってみようかなと。どうせなら、あの立派な国宝、京都・広隆寺の「半跏思惟像」を真似してみようという大胆不敵な思いつき(上手に彫れるわけはない、それを重々承知の上で)

 仏像を彫るような気持ちでゆるゆると彫っていきたいと思っています。