某高校で各生徒が玉子を孵し鶏を育てる授業をしているそうです。
そして、その授業の最後は、自分で育てた鶏を、自分で食べるそうです。
命の大切さを、自分で命を育てること、そしてそれを食べることによって学ぶ、尊い授業になっているとのことです。
生徒の中にはどうしても鶏の命を奪えない人もいるようですし、厳しい表情で授業に臨む生徒もいるようです。
きっと彼らは「命」というもの「生きる」ということの暖かさと厳しさを身をもって学ぶことができたのではないでしょうか。。

一方で、子供達にそんな残酷なことを教える必要はないのではないかという非難もあるようです。
生き物の命を奪うこと、それを食べること、確かに残酷なことのように思えますね。
知らずに済むのであれば、あえて教えることはないのではないか?という意見が出ることも分らないではありません。
しかし、全ての生き物は少なからず他の生き物の命をもって自らの命をつないで行くんだということを教えなくていいのでしょうか?

昔は身近に死があり、家畜などを自宅でつぶして食用にすることがありました。
鶏はそんな生き物の代表例でした。
昨日まで庭で餌をついばんでいた鶏が、突然いなくなり数日後には食卓に上ることは、良くあることだったんですね。
当時の子供達は、自宅では鶏を飼っていなくても、近所でそのようなことが行われるのを見ることはあったんです。
そして、「あの鶏」を食べているんだということを認識し、命の重みや暖かさを学んでいったんですね。

今では食べるために生き物の命を奪うことさえ「残酷」という言葉で覆い隠し、子供達だけでなくその親の世代も「命を食べている」ことの認識がなくなっているのではないでしょうか?
このため「お肉」といえばスーパーでパックされたものしか思い浮かばず、生きて温かみを持った豚や牛や鶏だったことは想像もできない人達ばかりになっているのではないでしょうか?
これは恐ろしいことですよね。。。。
生きることの痛みも暖かさも尊さも認識できないんですから、他人の命や他の動物の命を奪うことに抵抗がなくなってしまいます。
つまり、残酷なことは「食べるために生き物の命を奪わなければ生きていけないんだということを知らない」ことなんです。
ナイフで自分の指を切ったことがある人だけが、ナイフで切られたときの痛さを理解できるのと同じように、自ら食べるために命を奪うことを知っている人だけが命の重さを知ることができるんです。
上記の高校の先生、、すごいですね!
今の日本にこんな「本当の教育」ができる先生はどれほどいるのでしょうか。。。