現世肯定の仏教へ
当サイトは、仏教の様々な瞑想法を自由に学ぼうと書いています。
ですが、各派の瞑想法・瞑想体系の間には、その思想の違い、目指す目標の違いがあって、それを無視することはできません。
今回は、思い切って、私の仏教に関する思想的な見解を、批判を含めて、各宗派の違いを含めて、書かせていただきます。
分かりやすく、「現世否定/肯定」という観点に絞ります。
このようなサイトを作っているのは、当然、仏教に対して興味やリスペクトがあるからです。
しかし、あくまでも、自由な立場から、客観的に距離を保って評価します。
もちろん、私は凡夫であって、解脱した智を持たない者として考えていることですし、もし、仏教徒であれば、三帰依戒に抵触するということも理解しています。
<現世否定ではなく現世肯定>
仏教は、時代や宗派によって多様ですが、仏教の問題点を一言で表現すれば、「現世否定」ということだと思っています。
ここに仏教の特徴の核心があり、評価れるべき点でもありますが、同時に、批判されるべき点でもあると考えています。
私は、当ブログで「欧米新仏教」と呼ぶ、近年の欧米での新しい仏教の潮流を評価しています。
その特徴は、超宗派・超宗教的で瞑想中心ということですが、もう一つの重要な特徴は、「現世肯定」的だという点です。
例えば、ヴィパッサナー瞑想を主導する欧米人の多くが、上座部の思想が「現世否定」的であることを理由に、上座部に属することを拒否しています(在家を選ぶということではなく)。
このような判断は、よく理解できます。
欧米の「マインドフルネス」ムーヴメントの中には、心理療法やビジネス利用などの実利的なものから、仏教の本来の現世否定的なものまで、様々なグラデーションが存在します。
伝統的な仏教に関して、総じて言えば、初期仏教、上座部仏教は「現世否定」の側面が強く、大乗仏教ではやや緩和され、後期密教やゾクチェン、禅宗ではその傾向が少なくなっていると思います。
当ブログが、後期密教やゾクチェンを評価するのは、仏教を「現世肯定」的に解釈してきたからですが、それでも十分だとは思えません。
もう少し細かく言えば、釈迦の思想に近いと推測できる原始仏典の「最古層経典」は、「古層経典」以降の「原始仏典」や、部派仏教に比較すれば、「現世否定」の側面が少ないと思います。
また、現代の上座部の中でも、ミャンマーやスリランカは「現世否定」の傾向が強く、タイはその傾向が弱いでしょう。
大乗仏教でも、インド仏教より、中国・日本仏教や禅宗の方が「現世肯定」的です。
これは仏教だけの話ではなくて、時代としての傾向もあります。
例えば、チベットのニンマ派の教判では、部派仏教を「止滅の道」とするのに対して、紀元後に生まれた大乗(菩薩乗)を「浄化の道」、中世に生まれた密教(金剛乗)を「変容の道」、ゾクチェン(任運乗)を「自己解脱の道」とします。
後者ほど、「現世肯定」的です。
ヒンドゥー系の思想でも、タントラ以前の方法を「止滅の道(ニヴリッティ・マールガ)」と表現します。
サーンキア派やヴェーダーンタ派などの古典バラモン哲学もこれに当たります。
その後、紀元後のヒンドゥー教の誕生、中世のタントラの誕生と、時代を経るごとに「現世肯定」的になります。
バクティ・ヨガは、ニンマ派が言う「浄化の道」と言っても良いでしょう。
タントラは、「増進の道(プラヴリッティ・マールガ)」と表現され、これは「変容の道」に相当します。
また、現代の聖者ラマナ・マハリシが「サハジャ」と言い、ニサルガダッタ・マハラジが「ニサルガ」と言う思想は、「自己解脱の道」に近いと思います。
このように、仏教、ヒンドゥー教の違いを越えて、時代を減るごとに、同時期に、より現世肯定的な思想が生まれてきました。
・止滅の道 : 部派仏教 - 古典ヨガ
・浄化の道 : 大乗 - バクティ・ヨガ
・変容の道 : 金剛乗 - タントラ・ヨガ
・自己解脱の道 : 任運乗 - サハジャ・ヨガ、ニサルガ・ヨガ
<現実肯定・現世利益ではなく創造の自由>
仏教が「現世否定」的であるというのは、具体的には、次のような点です。
・最終的には心身の止滅である涅槃(解脱)を目指すものであり、生物としての人間を否定する
・出家は、人間の社会性を否定し、生産行為を行わずに経済的な自立を否定する
・概念やイメージという人間が持つ基本的な精神の機能の価値を否定的に捉える
普通に考えれば、このような思想は、生きることからの逃避、本当の自由の放棄、生物としての狂気、と言われても当然でしょう。
仏教は、身心における、そして、社会的活動における、概念的活動における、「創造」行為を評価しない傾向があります。
仏教は「苦」から出発するため、「放棄」することを考え、「創造」する「自由」や「喜び」を追求しません。
世界史的に見れば、「現世否定」の思想は、抑圧的な王国や帝国の権力下で、その価値観を否定する形で生まれる傾向があります。
例えば、ローマ帝国の支配下で生まれたグノーシス主義などです。
古代インドで生まれた仏教思想は、当時の市場経済がもたらす「自由」と、複数の王国・帝国の権力に対する「否定」の狭間で成長した思想だと思っています。
私は、「現世否定」という点で、仏教が基本的に不十分な思想、仏教的に言えば「未了義」な思想であると思っています。
仏教では、従来の教説を「未了義」として、新たにより包括的な立場(了義)から再解釈することで、新しく思想を生み出してきました。
北伝仏教の歴史は、「現世否定」をいかに乗り越えるかという試みの歴史、という側面があったと思います。
しかし、否定すべきものはしっかり否定すべきと考えています。
例えば、中国・日本仏教、禅宗の「現実肯定」的傾向や、初期密教の「現世利益」的傾向は、評価できません。
「現世肯定」は、「現実肯定」、「現世利益」とは異なります、というか、別のものとして扱います。
私は、煩悩のある状態をそのまま肯定する「天台本覚思想」や、現象を実在とする「天台実相論」、そしてそれらに類する思想は、評価することはできません。
これらは、「現実肯定」の思想だからです。
限界づけられた、不自由な現実を、認めてはいけないと考えます。
「現世利益」も、「現実肯定」の一種です。
「現世利益」は、「自我」に基づく欲望を肯定する立場です。
初期密教に代表される、「現世利益」的思想は評価できません。
また、欧米の「マインドフルネス」の目的が、心理療法として治療そのものや、ビジネス上の実利性そのものに限定されるなら、やはり「現世利益」的な思想であって、評価できません。
社会の常識的な価値観を否定するものではないからです。
「現実肯定」や「現世利益」が肯定する「現実(現象)」や「自我」、「煩悩」は、自然なもの、自由なものではなくて、社会的、経済的に形作られ、限定されたものです。
社会や経済の体制が人に強いる、特定の価値観や常識、執着は否定しなければいけません。
しかし、それを、心身の「放棄」を目指す「現世否定」ではなく、「創造」の自由を目指す「現世肯定」の立場で探求することができます。
仏教は、「苦」の原因を、心理的、認識論的に分析しましたが、社会や経済の側面から、それがどう限界づけられているかの分析しませんでした。
創造の自由を目指すには、そういった観点が必要になります。
それが、仏教思想の弱点でしょう。
つまり、「現世肯定」は、「現世否定」、「現世利益」、「現実肯定」を否定した「自由」として探究すべきものであって、それは、「社会的・経済的」な「自由」、「創造」と一体です。
具体的には、例えば、家族を持ち、社会の中で生産活動を行いながらも、自由な人間関係を作り、言葉やイメージを創造的に使い、社会的に要請された利己的な欲望に制限されることなく、自然な欲望の創造を肯定するような立場です。
<諸派の思想展開>
初期仏教は、後天的な無明に基づく欲望をなくすだけではなく、先天的な欲望をも止滅するように導きます。
しかし、後天的な束縛、分別による無明をなくしつつも、欲望を自由に変化するままに任せて、それが、止滅に向かうなら、それも良し、違う形の創造に向かうなら、それも良し、という立場もあります。
こういった方向に向かう中で、「現世肯定」の思想を最初に主張したのは、初期大乗仏教の経典で、在家の中の悟りを目指した「維摩経」かもしれません。
この経典は、在家の維摩居子が中心的な説法者となって、「在家にいながら三界に執着なく」、「慈悲行は日常の中でこそ行う」、「煩悩を断じずに涅槃に入るのが本当の三昧であり釈迦の教え」、「生死のうちにあって汚れた行いをせず、涅槃のうちに住しながら永遠に消滅してしまわない」と説きます。
ただ、ほとんど禅問答のようで、論理的にはよく理解できないところもあります。
その後、「般若経」の流れにある「理趣経」が、「一切法清浄」、「一切法無戯論性」と表明しました。
つまり、愛欲などの煩悩(三毒)とされる感情も、分別を伴わない状態ならば清浄なものであると主張しました。
アビダルマでは、三毒(貪瞋痴)があれば「不善心」であり、「清浄」ではなく、そこに分別の有無は関係ありません。
これを受けて、後期密教は、怒りや愛欲の感情を「止滅」させずに、それを無分別で主客のないエネルギーに「変容」させることで、悟りを目指す修行方法を編み出しました。
ちなみに、後期密教を担った主役は、寺院を出た遊行の修行者です。
また、当ブログが「任運乗」と分類しているゾクチェンや禅宗の一部の仏教思想は、「あるがまま」や「無努力」を主張します。
と言っても、「あるがまま」は「煩悩」をそのまま肯定するのではなく、「無努力」は「修行否定」でもありません。
ゾクチェンを伝えるニンマ派も、本来、在家あるいは遊行の修行者です。
ゾクチェンの「自己解脱の道」は、感情や思考などを、顕教のように「放棄」、「止滅」させることも、密教のように「変容」させることもなく、現れるやいなや、作為なしに解放して「自然」に任せます。
「自己解脱の道」では、もはや、煩悩をなくすことは重要ではなくなり、常に自覚することで、それが現れないようにします。
といっても、現われを止めるのではなく、現れるやいなや、それを自然に解脱させる、つまり、限界なしに創造的にします。
もちろん、意識の上では、すぐに消え去るのですが。
そして、重要なのは、社会生活も、概念的な思考も否定しないことです。
日常生活の中でも、業の結果で生まれた分別を、即座に自然に清らかな状態に解放させる、その状態を持続させることを目指します。
これは、アビダルマの「唯作心」とは異なります。
禅宗は、論理的にその思想を説かないし、一人一宗のような多様性があるので、括りで説きづらいのですが、唐代の禅の、馬祖の「作用即性」、「日用即妙用」、「平常心是道」と表現される思想も、生活の中の悟りを重視する思想です。
これを受けた無住や臨済が、「活溌溌地」と直感的に表現するのは、ゾクチェンの「自己解脱」に近い思想なのかもしれません。
<認識ではなく創造>
仏教は、「心」を、主に「認識」という側面から考えてきたので、「正しい」か「間違っている」かが問題になります。
しかし、もし、「存在」、あるいは「創造」という側面で考えると、「自由」か「不自由(制限されている)」かが問題になります。
「間違った認識」を「正しい認識」にするだけでは、「自由」は得られません。
概念やイメージなどの認識の反応「放棄」しても、「創造」がなければ、「自由」はありません。
正しいかどうかという観点のない状態でこそ、行為は「創造的」になります。
治療を行う医師の立場と、創造を行う芸術家の立場は異なります。
心を「認識」と「正しさ」ではなく、「創造」と「自由」から考えることが、「現世肯定」的思想に必要なことだと思います。
「現世否定」と「現世肯定」の違いを考えましょう。
例えば、「(諸行)無常」という仏教の哲学的概念、命題に対する解釈と実践の違いについてです。
「法有」の「現世否定」の立場で考えると、部派仏教のように、「形あるもの(形の決まったもの)」が「滅する」ことを重視し、それを「認識」することで、執着をなくすことを目指します。
上座部は、「観」の瞑想で、「自性」を持つ諸行の無常なる「共相」、つまり共通の属性としての「無常」の観察を行います。
得られるのは、「形」あるもの全体への否定的姿勢と、現世的なものへの無関心(捨)です。
これと反対に、「法無我」の「現世肯定」の立場で考えると、後期密教やゾクチェンのように、「形(形が決まっていない新しい形)」が常に「生まれ続ける」ことを重視し、それを「体験」することで、執着をなくすことを目指します。
作為のない「観」的な瞑想で、「真如相」、つまり「無自性」である多様性を体験します。
得られるのは、制限のない「形」の生成・変化を肯定する姿勢と、現世的なものへの一定の関心です。
このように、「三法印(三相)」のような命題を共有しても、世界に対する態度を180度反対にして解釈することができます。
<瞑想における創造>
次に、瞑想における、心の「認識」と「創造」の違いについて考えてみましょう。
例えば、仏教は「今」の体験に対する気づき、正しい認識や今になりきることを重視します。
ヴィパッサナー瞑想もそうですし、禅もそうです。
上座部、その他のいくつもの宗派では、感覚で反応を止めて、イメージ、思考、感情などを起こさないようにします。
でも、習慣化された反応をせずに、一回限りの創造的反応をすることも、難しいけれども、できます。
また、人は「ボーっ」と物思いにふけって、気になること、過去や未来のことなどに思いを巡らせる中で、新しい発想を得ることがあります。
意識や思考を「今」の現実に縛り付けずに、自由に連想して、雑念に気を散らせることで、様々に創造的なアイディアを生み出すのです。
唯識派は、すべてが「識」であると言い、止観の対象も「識」であるとしました。
唯識派に限らずですが、大乗の唯心的は発想は、結果的に、「心」を「認識」と見る観点から、「存在(創造)」と見る観点へと変化するきっかけになったと思います。
密教の「観想」は、表象を能動的に生滅させることなどに重点があって、従来の瞑想法よりも少し創造的な作業であると思います。
後期密教における「忿怒尊」や「歓喜尊」は、力動的な創造運動を象徴し、それを導くことで、制限された煩悩を乗り越えようとします。
それゆえに、「認識」よりも「創造」としての自由を表現します。
やがて、この「観想」は、意識的に制御するものから、自然に「創造」される状態に発展していきます。
マハームドラーやゾクチェンなどの「任運乗」の思想に向けて。
まず、後期密教の本尊ヨガの観想では、イメージは、意識的に想像する「サンマヤ・サッタ」から始め、それを自然に創造され、自然に動く「ジュニャーナ・サッタ」に変えます。
マハームドラーでは、自然に煩悩によらないイメージが生成される到達段階を表現します。
また、ニンマ派の言う「アヌ・ヨガ」は、最初から観想するイメージの形象性を制御しません。
ただ、密教やマハームドラーは、言葉やイメージに関して肯定的ではありますが、創造の原型としての、諸尊や種子の形象に依存します。
しかし、ゾクチェンや「アティ・ヨガ」は、そのような原型的な形象への依存からも自由です。
ゾクチェンでは、言葉やイメージは、「無自性」なものとして、自然に変化していきます。
ここに至って、仏教思想は、過去最大に「創造」としての自由を獲得したと思います。
<哲学的教義における創造>
次に、教義の哲学的な側面で、心の「認識」と「創造」の問題を考えてみましょう。
大乗仏教以降の「法身」や「空性」という概念は、「認識」と「存在」の両面が一体化した概念です。
例えば、「法身」は、真理の「認識」としての「智法身」という側面と、「真理」そのものという「存在」として「理法身」に分けられることもあります。
後期密教やゾクチェンは、この「法身」=「空性」に、これが「存在の母体」であり「創造力に満ちた」という性質を付け加えます。
例えば、ヒンドゥー・タントラのカシミール・シヴァ派は、世界創造はシヴァ神の「遊戯」であり「舞踏」であると言います。
イスラム哲学者の最高峰、イブン・アラビーは、神の自己顕現は繰り返すことがなく、世界のダイナミズムは「瞬間ごとにおける創造の更新」だと考えました。
ゾクチェンは、同じことを、無神論的に、宇宙の創造的な「エネルギーの戯れ」であると表現します。
ゾクチェンの思想は「自己解脱」と表現されますが、これは、単に心が自然に止滅するということではなくて、心が常に創造され、創造された心を制限することなく、自由に解き放つよう(自性を持たないものを自性がないまま)にすることでしょう。
これらは、「絶対自由」としての「現世肯定」の思想の表現であると思います。
そして、ゾクチェンでは、この「エネルギーの創造の戯れ」を、「慈悲」とも、「智慧」とも表現します。
梵天に促されて釈迦が説法を始めたことに由来する「慈悲」という概念は、ゾクチェンにおいては、心の根源における「遊戯」としての瞬間ごとの「創造」、「舞踏」と一体のものとなりました。
そして、「智慧」は「認識」を超えて、「創造」になりました。
仏教の歴史の中で、後期密教やゾクチェンが行った思想の創造の意味は、旧来の仏教が持つ「絶対否定」の思想を前提にしながらも、それを反転して、より古くからある「絶対肯定」の思想とつなげることだったのではないかと、評価しています。
何度も書きますが、本当の仏説が何かにこだわるような議論は、無意味だと思います。
それは、「信」の道を歩む者だけが、信じればいいのです。
このような「現世肯定」の思想は、釈迦より古いシャーマン的な「智慧の道」、あるいは、狩猟文化の豊饒宗教に由来するものかもしれません。
姉妹サイトの「夢見の技術」で紹介している方法や思想も、そのような思想に基づいていると思っています。
イメージや概念を、直感や直観レベルから自然に育てる思想と技術です。
<新しい仏教>
無我や空の思想の基づいて、利己的な執着なしに、社会生活の中で、創造的に概念的思考も行いながら生きる…、21世紀の仏教に求められているのは、そのような道であると思っています。
先に書いたように、最近の欧米の仏教(瞑想)の需要の状況には、「マインドフルネス」ブームに見られるように、心理療法(鬱病治療)やビジネス・リーダーシップ研修などのような、現世肯定的なものがあります。
それは、ともすれば、既存の社会的な価値観を肯定するだけのものになりがちですが、同時に、それを相対化して、本当の自由、新しい価値創造に向かう流れもあります。
例えば、ミャンマーの上座部で出家して修業した後、アメリカで瞑想に基づくストレス緩和法を学んだ経験がある井上ウィマラ氏が、次のように語っています。
「日本とミャンマーでお坊さんとして、ただただ手放すだけの行をしなきゃいけなかったんですね。そうして身につけた技を、今度は西洋に行って、西洋人に教える中で、雑念って、全部が全部手放せなくてもいいし、ダイヤモンドの原石だって混じってることもあるんだということを、彼らから教えてもらった。」(「サンガ・ジャパン」vol.19)
欧米新仏教は、出家主義や心身の止滅を目指すような「現世否定」ではない、新しい「現世肯定」の仏教を生み出しつつあるだろうと思っています。
ですが、各派の瞑想法・瞑想体系の間には、その思想の違い、目指す目標の違いがあって、それを無視することはできません。
今回は、思い切って、私の仏教に関する思想的な見解を、批判を含めて、各宗派の違いを含めて、書かせていただきます。
分かりやすく、「現世否定/肯定」という観点に絞ります。
このようなサイトを作っているのは、当然、仏教に対して興味やリスペクトがあるからです。
しかし、あくまでも、自由な立場から、客観的に距離を保って評価します。
もちろん、私は凡夫であって、解脱した智を持たない者として考えていることですし、もし、仏教徒であれば、三帰依戒に抵触するということも理解しています。
<現世否定ではなく現世肯定>
仏教は、時代や宗派によって多様ですが、仏教の問題点を一言で表現すれば、「現世否定」ということだと思っています。
ここに仏教の特徴の核心があり、評価れるべき点でもありますが、同時に、批判されるべき点でもあると考えています。
私は、当ブログで「欧米新仏教」と呼ぶ、近年の欧米での新しい仏教の潮流を評価しています。
その特徴は、超宗派・超宗教的で瞑想中心ということですが、もう一つの重要な特徴は、「現世肯定」的だという点です。
例えば、ヴィパッサナー瞑想を主導する欧米人の多くが、上座部の思想が「現世否定」的であることを理由に、上座部に属することを拒否しています(在家を選ぶということではなく)。
このような判断は、よく理解できます。
欧米の「マインドフルネス」ムーヴメントの中には、心理療法やビジネス利用などの実利的なものから、仏教の本来の現世否定的なものまで、様々なグラデーションが存在します。
伝統的な仏教に関して、総じて言えば、初期仏教、上座部仏教は「現世否定」の側面が強く、大乗仏教ではやや緩和され、後期密教やゾクチェン、禅宗ではその傾向が少なくなっていると思います。
当ブログが、後期密教やゾクチェンを評価するのは、仏教を「現世肯定」的に解釈してきたからですが、それでも十分だとは思えません。
もう少し細かく言えば、釈迦の思想に近いと推測できる原始仏典の「最古層経典」は、「古層経典」以降の「原始仏典」や、部派仏教に比較すれば、「現世否定」の側面が少ないと思います。
また、現代の上座部の中でも、ミャンマーやスリランカは「現世否定」の傾向が強く、タイはその傾向が弱いでしょう。
大乗仏教でも、インド仏教より、中国・日本仏教や禅宗の方が「現世肯定」的です。
これは仏教だけの話ではなくて、時代としての傾向もあります。
例えば、チベットのニンマ派の教判では、部派仏教を「止滅の道」とするのに対して、紀元後に生まれた大乗(菩薩乗)を「浄化の道」、中世に生まれた密教(金剛乗)を「変容の道」、ゾクチェン(任運乗)を「自己解脱の道」とします。
後者ほど、「現世肯定」的です。
ヒンドゥー系の思想でも、タントラ以前の方法を「止滅の道(ニヴリッティ・マールガ)」と表現します。
サーンキア派やヴェーダーンタ派などの古典バラモン哲学もこれに当たります。
その後、紀元後のヒンドゥー教の誕生、中世のタントラの誕生と、時代を経るごとに「現世肯定」的になります。
バクティ・ヨガは、ニンマ派が言う「浄化の道」と言っても良いでしょう。
タントラは、「増進の道(プラヴリッティ・マールガ)」と表現され、これは「変容の道」に相当します。
また、現代の聖者ラマナ・マハリシが「サハジャ」と言い、ニサルガダッタ・マハラジが「ニサルガ」と言う思想は、「自己解脱の道」に近いと思います。
このように、仏教、ヒンドゥー教の違いを越えて、時代を減るごとに、同時期に、より現世肯定的な思想が生まれてきました。
・止滅の道 : 部派仏教 - 古典ヨガ
・浄化の道 : 大乗 - バクティ・ヨガ
・変容の道 : 金剛乗 - タントラ・ヨガ
・自己解脱の道 : 任運乗 - サハジャ・ヨガ、ニサルガ・ヨガ
<現実肯定・現世利益ではなく創造の自由>
仏教が「現世否定」的であるというのは、具体的には、次のような点です。
・最終的には心身の止滅である涅槃(解脱)を目指すものであり、生物としての人間を否定する
・出家は、人間の社会性を否定し、生産行為を行わずに経済的な自立を否定する
・概念やイメージという人間が持つ基本的な精神の機能の価値を否定的に捉える
普通に考えれば、このような思想は、生きることからの逃避、本当の自由の放棄、生物としての狂気、と言われても当然でしょう。
仏教は、身心における、そして、社会的活動における、概念的活動における、「創造」行為を評価しない傾向があります。
仏教は「苦」から出発するため、「放棄」することを考え、「創造」する「自由」や「喜び」を追求しません。
世界史的に見れば、「現世否定」の思想は、抑圧的な王国や帝国の権力下で、その価値観を否定する形で生まれる傾向があります。
例えば、ローマ帝国の支配下で生まれたグノーシス主義などです。
古代インドで生まれた仏教思想は、当時の市場経済がもたらす「自由」と、複数の王国・帝国の権力に対する「否定」の狭間で成長した思想だと思っています。
私は、「現世否定」という点で、仏教が基本的に不十分な思想、仏教的に言えば「未了義」な思想であると思っています。
仏教では、従来の教説を「未了義」として、新たにより包括的な立場(了義)から再解釈することで、新しく思想を生み出してきました。
北伝仏教の歴史は、「現世否定」をいかに乗り越えるかという試みの歴史、という側面があったと思います。
しかし、否定すべきものはしっかり否定すべきと考えています。
例えば、中国・日本仏教、禅宗の「現実肯定」的傾向や、初期密教の「現世利益」的傾向は、評価できません。
「現世肯定」は、「現実肯定」、「現世利益」とは異なります、というか、別のものとして扱います。
私は、煩悩のある状態をそのまま肯定する「天台本覚思想」や、現象を実在とする「天台実相論」、そしてそれらに類する思想は、評価することはできません。
これらは、「現実肯定」の思想だからです。
限界づけられた、不自由な現実を、認めてはいけないと考えます。
「現世利益」も、「現実肯定」の一種です。
「現世利益」は、「自我」に基づく欲望を肯定する立場です。
初期密教に代表される、「現世利益」的思想は評価できません。
また、欧米の「マインドフルネス」の目的が、心理療法として治療そのものや、ビジネス上の実利性そのものに限定されるなら、やはり「現世利益」的な思想であって、評価できません。
社会の常識的な価値観を否定するものではないからです。
「現実肯定」や「現世利益」が肯定する「現実(現象)」や「自我」、「煩悩」は、自然なもの、自由なものではなくて、社会的、経済的に形作られ、限定されたものです。
社会や経済の体制が人に強いる、特定の価値観や常識、執着は否定しなければいけません。
しかし、それを、心身の「放棄」を目指す「現世否定」ではなく、「創造」の自由を目指す「現世肯定」の立場で探求することができます。
仏教は、「苦」の原因を、心理的、認識論的に分析しましたが、社会や経済の側面から、それがどう限界づけられているかの分析しませんでした。
創造の自由を目指すには、そういった観点が必要になります。
それが、仏教思想の弱点でしょう。
つまり、「現世肯定」は、「現世否定」、「現世利益」、「現実肯定」を否定した「自由」として探究すべきものであって、それは、「社会的・経済的」な「自由」、「創造」と一体です。
具体的には、例えば、家族を持ち、社会の中で生産活動を行いながらも、自由な人間関係を作り、言葉やイメージを創造的に使い、社会的に要請された利己的な欲望に制限されることなく、自然な欲望の創造を肯定するような立場です。
<諸派の思想展開>
初期仏教は、後天的な無明に基づく欲望をなくすだけではなく、先天的な欲望をも止滅するように導きます。
しかし、後天的な束縛、分別による無明をなくしつつも、欲望を自由に変化するままに任せて、それが、止滅に向かうなら、それも良し、違う形の創造に向かうなら、それも良し、という立場もあります。
こういった方向に向かう中で、「現世肯定」の思想を最初に主張したのは、初期大乗仏教の経典で、在家の中の悟りを目指した「維摩経」かもしれません。
この経典は、在家の維摩居子が中心的な説法者となって、「在家にいながら三界に執着なく」、「慈悲行は日常の中でこそ行う」、「煩悩を断じずに涅槃に入るのが本当の三昧であり釈迦の教え」、「生死のうちにあって汚れた行いをせず、涅槃のうちに住しながら永遠に消滅してしまわない」と説きます。
ただ、ほとんど禅問答のようで、論理的にはよく理解できないところもあります。
その後、「般若経」の流れにある「理趣経」が、「一切法清浄」、「一切法無戯論性」と表明しました。
つまり、愛欲などの煩悩(三毒)とされる感情も、分別を伴わない状態ならば清浄なものであると主張しました。
アビダルマでは、三毒(貪瞋痴)があれば「不善心」であり、「清浄」ではなく、そこに分別の有無は関係ありません。
これを受けて、後期密教は、怒りや愛欲の感情を「止滅」させずに、それを無分別で主客のないエネルギーに「変容」させることで、悟りを目指す修行方法を編み出しました。
ちなみに、後期密教を担った主役は、寺院を出た遊行の修行者です。
また、当ブログが「任運乗」と分類しているゾクチェンや禅宗の一部の仏教思想は、「あるがまま」や「無努力」を主張します。
と言っても、「あるがまま」は「煩悩」をそのまま肯定するのではなく、「無努力」は「修行否定」でもありません。
ゾクチェンを伝えるニンマ派も、本来、在家あるいは遊行の修行者です。
ゾクチェンの「自己解脱の道」は、感情や思考などを、顕教のように「放棄」、「止滅」させることも、密教のように「変容」させることもなく、現れるやいなや、作為なしに解放して「自然」に任せます。
「自己解脱の道」では、もはや、煩悩をなくすことは重要ではなくなり、常に自覚することで、それが現れないようにします。
といっても、現われを止めるのではなく、現れるやいなや、それを自然に解脱させる、つまり、限界なしに創造的にします。
もちろん、意識の上では、すぐに消え去るのですが。
そして、重要なのは、社会生活も、概念的な思考も否定しないことです。
日常生活の中でも、業の結果で生まれた分別を、即座に自然に清らかな状態に解放させる、その状態を持続させることを目指します。
これは、アビダルマの「唯作心」とは異なります。
禅宗は、論理的にその思想を説かないし、一人一宗のような多様性があるので、括りで説きづらいのですが、唐代の禅の、馬祖の「作用即性」、「日用即妙用」、「平常心是道」と表現される思想も、生活の中の悟りを重視する思想です。
これを受けた無住や臨済が、「活溌溌地」と直感的に表現するのは、ゾクチェンの「自己解脱」に近い思想なのかもしれません。
<認識ではなく創造>
仏教は、「心」を、主に「認識」という側面から考えてきたので、「正しい」か「間違っている」かが問題になります。
しかし、もし、「存在」、あるいは「創造」という側面で考えると、「自由」か「不自由(制限されている)」かが問題になります。
「間違った認識」を「正しい認識」にするだけでは、「自由」は得られません。
概念やイメージなどの認識の反応「放棄」しても、「創造」がなければ、「自由」はありません。
正しいかどうかという観点のない状態でこそ、行為は「創造的」になります。
治療を行う医師の立場と、創造を行う芸術家の立場は異なります。
心を「認識」と「正しさ」ではなく、「創造」と「自由」から考えることが、「現世肯定」的思想に必要なことだと思います。
「現世否定」と「現世肯定」の違いを考えましょう。
例えば、「(諸行)無常」という仏教の哲学的概念、命題に対する解釈と実践の違いについてです。
「法有」の「現世否定」の立場で考えると、部派仏教のように、「形あるもの(形の決まったもの)」が「滅する」ことを重視し、それを「認識」することで、執着をなくすことを目指します。
上座部は、「観」の瞑想で、「自性」を持つ諸行の無常なる「共相」、つまり共通の属性としての「無常」の観察を行います。
得られるのは、「形」あるもの全体への否定的姿勢と、現世的なものへの無関心(捨)です。
これと反対に、「法無我」の「現世肯定」の立場で考えると、後期密教やゾクチェンのように、「形(形が決まっていない新しい形)」が常に「生まれ続ける」ことを重視し、それを「体験」することで、執着をなくすことを目指します。
作為のない「観」的な瞑想で、「真如相」、つまり「無自性」である多様性を体験します。
得られるのは、制限のない「形」の生成・変化を肯定する姿勢と、現世的なものへの一定の関心です。
このように、「三法印(三相)」のような命題を共有しても、世界に対する態度を180度反対にして解釈することができます。
<瞑想における創造>
次に、瞑想における、心の「認識」と「創造」の違いについて考えてみましょう。
例えば、仏教は「今」の体験に対する気づき、正しい認識や今になりきることを重視します。
ヴィパッサナー瞑想もそうですし、禅もそうです。
上座部、その他のいくつもの宗派では、感覚で反応を止めて、イメージ、思考、感情などを起こさないようにします。
でも、習慣化された反応をせずに、一回限りの創造的反応をすることも、難しいけれども、できます。
また、人は「ボーっ」と物思いにふけって、気になること、過去や未来のことなどに思いを巡らせる中で、新しい発想を得ることがあります。
意識や思考を「今」の現実に縛り付けずに、自由に連想して、雑念に気を散らせることで、様々に創造的なアイディアを生み出すのです。
唯識派は、すべてが「識」であると言い、止観の対象も「識」であるとしました。
唯識派に限らずですが、大乗の唯心的は発想は、結果的に、「心」を「認識」と見る観点から、「存在(創造)」と見る観点へと変化するきっかけになったと思います。
密教の「観想」は、表象を能動的に生滅させることなどに重点があって、従来の瞑想法よりも少し創造的な作業であると思います。
後期密教における「忿怒尊」や「歓喜尊」は、力動的な創造運動を象徴し、それを導くことで、制限された煩悩を乗り越えようとします。
それゆえに、「認識」よりも「創造」としての自由を表現します。
やがて、この「観想」は、意識的に制御するものから、自然に「創造」される状態に発展していきます。
マハームドラーやゾクチェンなどの「任運乗」の思想に向けて。
まず、後期密教の本尊ヨガの観想では、イメージは、意識的に想像する「サンマヤ・サッタ」から始め、それを自然に創造され、自然に動く「ジュニャーナ・サッタ」に変えます。
マハームドラーでは、自然に煩悩によらないイメージが生成される到達段階を表現します。
また、ニンマ派の言う「アヌ・ヨガ」は、最初から観想するイメージの形象性を制御しません。
ただ、密教やマハームドラーは、言葉やイメージに関して肯定的ではありますが、創造の原型としての、諸尊や種子の形象に依存します。
しかし、ゾクチェンや「アティ・ヨガ」は、そのような原型的な形象への依存からも自由です。
ゾクチェンでは、言葉やイメージは、「無自性」なものとして、自然に変化していきます。
ここに至って、仏教思想は、過去最大に「創造」としての自由を獲得したと思います。
<哲学的教義における創造>
次に、教義の哲学的な側面で、心の「認識」と「創造」の問題を考えてみましょう。
大乗仏教以降の「法身」や「空性」という概念は、「認識」と「存在」の両面が一体化した概念です。
例えば、「法身」は、真理の「認識」としての「智法身」という側面と、「真理」そのものという「存在」として「理法身」に分けられることもあります。
後期密教やゾクチェンは、この「法身」=「空性」に、これが「存在の母体」であり「創造力に満ちた」という性質を付け加えます。
例えば、ヒンドゥー・タントラのカシミール・シヴァ派は、世界創造はシヴァ神の「遊戯」であり「舞踏」であると言います。
イスラム哲学者の最高峰、イブン・アラビーは、神の自己顕現は繰り返すことがなく、世界のダイナミズムは「瞬間ごとにおける創造の更新」だと考えました。
ゾクチェンは、同じことを、無神論的に、宇宙の創造的な「エネルギーの戯れ」であると表現します。
ゾクチェンの思想は「自己解脱」と表現されますが、これは、単に心が自然に止滅するということではなくて、心が常に創造され、創造された心を制限することなく、自由に解き放つよう(自性を持たないものを自性がないまま)にすることでしょう。
これらは、「絶対自由」としての「現世肯定」の思想の表現であると思います。
そして、ゾクチェンでは、この「エネルギーの創造の戯れ」を、「慈悲」とも、「智慧」とも表現します。
梵天に促されて釈迦が説法を始めたことに由来する「慈悲」という概念は、ゾクチェンにおいては、心の根源における「遊戯」としての瞬間ごとの「創造」、「舞踏」と一体のものとなりました。
そして、「智慧」は「認識」を超えて、「創造」になりました。
仏教の歴史の中で、後期密教やゾクチェンが行った思想の創造の意味は、旧来の仏教が持つ「絶対否定」の思想を前提にしながらも、それを反転して、より古くからある「絶対肯定」の思想とつなげることだったのではないかと、評価しています。
何度も書きますが、本当の仏説が何かにこだわるような議論は、無意味だと思います。
それは、「信」の道を歩む者だけが、信じればいいのです。
このような「現世肯定」の思想は、釈迦より古いシャーマン的な「智慧の道」、あるいは、狩猟文化の豊饒宗教に由来するものかもしれません。
姉妹サイトの「夢見の技術」で紹介している方法や思想も、そのような思想に基づいていると思っています。
イメージや概念を、直感や直観レベルから自然に育てる思想と技術です。
<新しい仏教>
無我や空の思想の基づいて、利己的な執着なしに、社会生活の中で、創造的に概念的思考も行いながら生きる…、21世紀の仏教に求められているのは、そのような道であると思っています。
先に書いたように、最近の欧米の仏教(瞑想)の需要の状況には、「マインドフルネス」ブームに見られるように、心理療法(鬱病治療)やビジネス・リーダーシップ研修などのような、現世肯定的なものがあります。
それは、ともすれば、既存の社会的な価値観を肯定するだけのものになりがちですが、同時に、それを相対化して、本当の自由、新しい価値創造に向かう流れもあります。
例えば、ミャンマーの上座部で出家して修業した後、アメリカで瞑想に基づくストレス緩和法を学んだ経験がある井上ウィマラ氏が、次のように語っています。
「日本とミャンマーでお坊さんとして、ただただ手放すだけの行をしなきゃいけなかったんですね。そうして身につけた技を、今度は西洋に行って、西洋人に教える中で、雑念って、全部が全部手放せなくてもいいし、ダイヤモンドの原石だって混じってることもあるんだということを、彼らから教えてもらった。」(「サンガ・ジャパン」vol.19)
欧米新仏教は、出家主義や心身の止滅を目指すような「現世否定」ではない、新しい「現世肯定」の仏教を生み出しつつあるだろうと思っています。