マハームドラー
「マハームドラー(チャクチェン、大印契)」は、本来、インドの後期密教に由来し、チベットではカーギュ派が伝承しています。
インドのティロパからナーローパー、そしてチベット人のマルパ、ミラレパ、ガムポパと伝承されてきました。
本ブログでは、ニンマ派が伝承している「マハーサンディ(ゾクチェン、大究竟)」と共に「任運乗」としてまとめています。
「倶生乗」という表現でも良いのかもしれません。
「任運乗」という言葉はほとんど使われていませんが、「あるがまま」を肯定する仏教の思想という意味です。
これは、あるがままに認識するという認識の問題ではなく、心のあり方をあるがままで肯定するという考え方です。
しかし、煩悩のある心をそのまま肯定するということではありません。
煩悩のない清浄な心が、作為せずに自然に現れるようにする、という意味です。
一般の密教のように、心を曼荼羅の現れ、尊格の象徴的現れに変容されるのではありません。
概念やイメージを含めてすべての心の表れを、自然に、煩悩のない創造的なあり方にして、そのまま肯定するということです。
「マハームドラー」という言葉は、直訳すれば「大いなる象徴」ですが、様々な意味で使われます。
ハタ・ヨガでは、特定の座法を意味します。
母タントラ系の後期密教では、性ヨガの相手である女性ヨガ行者を意味し、さらには、楽空無分別の智恵を意味します。
ニンマ派では、意識的にコントロールをしなくても、曼荼羅の清浄な現われが現われるようになった段階を意味します。
そして、清浄な現れと不浄な現れが一つになる、つまり、どちらも同じ心の本質から生まれた実体なき存在であると理解します。
12Cにカーギュ派のガムポパ・ソナム・リンチェンが、マハームドラーを独立した修行体系として立てたため、それ以前のものとは別の意味を持つようになりました。
彼は、「真珠の環」という瞑想指南書で、止観を土台にした「4つのヨガ」を説いています。
それ以降の重要な書としては、16Cダクポ・タシ・ナムギェルの「マハームドラーの月光」、「本然の真如を明らかにする大いなる指南書」があります。
欧米にマハームドラーを紹介したのは、カーギュ派の亡命僧のチョギャム・トゥルンパです。
彼によると、マハームドラーは、現われがそれ自身の「象徴」となる状態、鮮やかで、明確な形態を持ち、より創造的、無始のもの、完全なもの、と表現されます。
単に現象の背後に境界のない「空」を見たり、それを創造的な存在である「光明」として見るのではなく、現われがより創造的で鮮やかなものとなります。
これは、「観(ヴィパッサーナー)」ではなく、「マハー・ヴィパッサナー」であるとも言います。
「マハームドラー」の代表的な行法は、「倶生結合」、その中心的な部分は「四ヨガ」と呼ばれます。
「倶生結合」は、「四加行」、必ず行わなければいけないのではない「副次的修行」、「四ヨガ」である「正行」、そして「後行」から構成されます。
「四加行」は、「帰依」、「発菩提心」、「金剛薩埵の瞑想」、「グル・ヨーガ」からなります。
これは一般的な密教の「加行」と同じです。
「副次的修行」は密教の「成就法」、具体的にはヴァジュラヴァーラーヒやチャクラサンヴァラの成就法や観音法です。
これによって「止」の集中力がつくと共に、心を浄化することができます。
もう一つは、「心の訓練(ロジョン)」です。
次が、中心となる瞑想の「正行(四ヨガ)」です。
これは「一点集中(止)」、「無技巧(観)」、「双修(一味)」、「無修」からなります。
最初は「一点集中」と呼ばれる「止」的な瞑想です。
雑念をただ観察していると心は静まり、不動の心の本質(光明)を得ます。
心の本質・母体である空=光明に集中するので、「止」です。
2つ目は、「無技巧」と呼ばれる「観」的な瞑想です。
心の本質(光明)から現われるイメージや概念などの心の活動を、あるがままに観察し、それが空であると理解します。
3つ目は「双修」あるいは「一味」と呼ばれる「観」的な瞑想法です。
不動の心の本質と心の活動・現れが、不二(心の本質は常に活動を現わし、現れは本質から生まれる)であることを理解します。
また、清浄な心の現われと不浄な心の現われが不二(どちらも同じ心の本質から生まれた、実体なきもの)であることを理解します。
4つ目は「無修」と呼ばれる瞑想法です。
この段階で、「マハームドラー」の境地になります。
ですから、意識的なコントロールなしに、清浄な表われが現われます。
曼荼羅の諸尊ではない、一般の現われでも、煩悩なしに動的に現れるのでしょう。
成就法を行う場合は、最後に尊格イメージを虚空(心そのもの)へと「融合」させた後、マハームドラーの瞑想、つまり無作為な状態に入ります。
最後の「後行」は、マハームドラーの境地を、日常でも「維持」することを目指すものです。
==
また、「五観想法」と呼ばれるマハームドラーの瞑想法があります。
「観想法」と言いますが、「止観」の瞑想法で、下記のように行います。
1 心の本質が、内にも外にもなく、空であることを理解する
2 自分の心があらゆるものの根源であると理解する
3 意識的なコントロールなしに、心の流れを観察する
4 心に現れたものを、ただそのままに観察することで、無概念な状態になる
5 思考が現れると、すぐに他の思考に移すことで、概念が現れると同時に解かれて、光明である法身となる
ほぼ先の「四ヨガ」と類似した瞑想法です。
インドのティロパからナーローパー、そしてチベット人のマルパ、ミラレパ、ガムポパと伝承されてきました。
本ブログでは、ニンマ派が伝承している「マハーサンディ(ゾクチェン、大究竟)」と共に「任運乗」としてまとめています。
「倶生乗」という表現でも良いのかもしれません。
「任運乗」という言葉はほとんど使われていませんが、「あるがまま」を肯定する仏教の思想という意味です。
これは、あるがままに認識するという認識の問題ではなく、心のあり方をあるがままで肯定するという考え方です。
しかし、煩悩のある心をそのまま肯定するということではありません。
煩悩のない清浄な心が、作為せずに自然に現れるようにする、という意味です。
一般の密教のように、心を曼荼羅の現れ、尊格の象徴的現れに変容されるのではありません。
概念やイメージを含めてすべての心の表れを、自然に、煩悩のない創造的なあり方にして、そのまま肯定するということです。
「マハームドラー」という言葉は、直訳すれば「大いなる象徴」ですが、様々な意味で使われます。
ハタ・ヨガでは、特定の座法を意味します。
母タントラ系の後期密教では、性ヨガの相手である女性ヨガ行者を意味し、さらには、楽空無分別の智恵を意味します。
ニンマ派では、意識的にコントロールをしなくても、曼荼羅の清浄な現われが現われるようになった段階を意味します。
そして、清浄な現れと不浄な現れが一つになる、つまり、どちらも同じ心の本質から生まれた実体なき存在であると理解します。
12Cにカーギュ派のガムポパ・ソナム・リンチェンが、マハームドラーを独立した修行体系として立てたため、それ以前のものとは別の意味を持つようになりました。
彼は、「真珠の環」という瞑想指南書で、止観を土台にした「4つのヨガ」を説いています。
それ以降の重要な書としては、16Cダクポ・タシ・ナムギェルの「マハームドラーの月光」、「本然の真如を明らかにする大いなる指南書」があります。
欧米にマハームドラーを紹介したのは、カーギュ派の亡命僧のチョギャム・トゥルンパです。
彼によると、マハームドラーは、現われがそれ自身の「象徴」となる状態、鮮やかで、明確な形態を持ち、より創造的、無始のもの、完全なもの、と表現されます。
単に現象の背後に境界のない「空」を見たり、それを創造的な存在である「光明」として見るのではなく、現われがより創造的で鮮やかなものとなります。
これは、「観(ヴィパッサーナー)」ではなく、「マハー・ヴィパッサナー」であるとも言います。
「マハームドラー」の代表的な行法は、「倶生結合」、その中心的な部分は「四ヨガ」と呼ばれます。
「倶生結合」は、「四加行」、必ず行わなければいけないのではない「副次的修行」、「四ヨガ」である「正行」、そして「後行」から構成されます。
「四加行」は、「帰依」、「発菩提心」、「金剛薩埵の瞑想」、「グル・ヨーガ」からなります。
これは一般的な密教の「加行」と同じです。
「副次的修行」は密教の「成就法」、具体的にはヴァジュラヴァーラーヒやチャクラサンヴァラの成就法や観音法です。
これによって「止」の集中力がつくと共に、心を浄化することができます。
もう一つは、「心の訓練(ロジョン)」です。
次が、中心となる瞑想の「正行(四ヨガ)」です。
これは「一点集中(止)」、「無技巧(観)」、「双修(一味)」、「無修」からなります。
最初は「一点集中」と呼ばれる「止」的な瞑想です。
雑念をただ観察していると心は静まり、不動の心の本質(光明)を得ます。
心の本質・母体である空=光明に集中するので、「止」です。
2つ目は、「無技巧」と呼ばれる「観」的な瞑想です。
心の本質(光明)から現われるイメージや概念などの心の活動を、あるがままに観察し、それが空であると理解します。
3つ目は「双修」あるいは「一味」と呼ばれる「観」的な瞑想法です。
不動の心の本質と心の活動・現れが、不二(心の本質は常に活動を現わし、現れは本質から生まれる)であることを理解します。
また、清浄な心の現われと不浄な心の現われが不二(どちらも同じ心の本質から生まれた、実体なきもの)であることを理解します。
4つ目は「無修」と呼ばれる瞑想法です。
この段階で、「マハームドラー」の境地になります。
ですから、意識的なコントロールなしに、清浄な表われが現われます。
曼荼羅の諸尊ではない、一般の現われでも、煩悩なしに動的に現れるのでしょう。
成就法を行う場合は、最後に尊格イメージを虚空(心そのもの)へと「融合」させた後、マハームドラーの瞑想、つまり無作為な状態に入ります。
最後の「後行」は、マハームドラーの境地を、日常でも「維持」することを目指すものです。
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また、「五観想法」と呼ばれるマハームドラーの瞑想法があります。
「観想法」と言いますが、「止観」の瞑想法で、下記のように行います。
1 心の本質が、内にも外にもなく、空であることを理解する
2 自分の心があらゆるものの根源であると理解する
3 意識的なコントロールなしに、心の流れを観察する
4 心に現れたものを、ただそのままに観察することで、無概念な状態になる
5 思考が現れると、すぐに他の思考に移すことで、概念が現れると同時に解かれて、光明である法身となる
ほぼ先の「四ヨガ」と類似した瞑想法です。