私は、今もぴかぴかとお尻を光らせています。

これは生きるためであり、生きていたらだいたいはお尻は光るのです。

けれど、私にはもっともっと別の目的があります。


ラジオのチャンネルで微かに電波を拾いたい、微かに話し声が聞こえる。何を話しているかはわからないけど、確かにこれはあの人の声だ。必死に微調整をする。

そうやって少しでもあなたに気付かれたいと思って、一生懸命光らせています。

でも時々疲れてしまうことがあって、私は一度死んで、また生まれたりして、輪廻転生を繰り返しながら、死んだ時は諦めてしまうのに、結局諦めたくなくてまた生まれてくるのです。

電球が切れたみたいに急に光そのものがなくなったり、そもそもあなたのことを考える余裕もなく光が弱まったり、逆に眩しいほどに強まる時もあるのです。


私はさっさと、涅槃に入ってしまいたいのです。

あなたを置いて行けたら、正直そんなに楽なことはございません。でもそんなのも結局は嘘です。あなたを困らせてでも私は楽になってしまいたいというのは、私の正義感からではないです。未練が残って仕方がないから、結果的に嘘なだけなのです。

本当は涅槃の中に少しだけ足を浸からせながら、草むらで手を繋いで、「明日も会える」と思いたい。それは小さい子供の姿になってもいいのです。エデンの園なんて贅沢は言わない。私はあなたの前でふくれたりもしてみたいし、少しいじわるもしてみたいし、逆にあなたからいじわるもされてみたい。「明日も会えるよ」と楽しみにご飯を食べて、眠りにつきたい、ただそれだけなのです。

だから、人間というのはなんて難しいんだろうと、時々心が折れそうになってしまいます。


私は、あなたがはっきりと、誓いの言葉を口にしてくれなければかなりいじけるでしょう。

それは、今までの私が濁った言葉に苦しんだからこそ、あなたの綺麗な言葉がどうしても欲しくて欲しくて執着してしまうのだと思います。

私は執着という言葉が大嫌いです。なぜなら、自分の執着している姿があまりにも汚くて、顔を切り刻んで鏡も見れなくしてやりたくなるような、気持ち悪さが自分にあることを自覚しているからです。

だから、私のする執着なんてほんの一瞬だけで十分なのです。ほんの一瞬だけだとわかると、私はとてもほっとします。ああ、私も堂々と街を歩けるんだ、紅茶の香りだけに集中して、ヘアーローションの香りにうっとりして、きっと人生が明るくなっていくんだ。そう思えるからです。

濁った言葉には、うんざりだとか、怒りだとか、悲しみだとか、そんなものは超えて、身体の震えとこわばりしかただ残らないのです。「一緒にいたい」と言われたって、なんで私と一緒にいたいかがわからないのに、それを言ってくれなかったのが濁った言葉たちです。物凄く自分を恥じ、絶対に言いたくなかった、どうせだの、いつもそうだだの、そういった泥のついた言葉がこころの中にとめどなく溢れてしまいます。それは、絶望として具現化されていき、私は寝込んでしまうのです。


ですからもう、あなたに見つかるまで恋すらしたくない。デートだってしたくない。面倒だ。

それでも、毎日光らせているお尻を見つけてくれるかどうか、そんな確証はないし、かと言って別にくじ引きのようなものでもないから、だんだんと考えるのを辞めて、目の前の刺繍のディテールや、ママの作った焼うどんに集中するんじゃありませんか。


だから、ちょいとだけの約束です。

もし、光ってる私のお尻を見つけたら、合図をしてください。それはあなたなりの合図で良いのです。

違ったら違うで良いのです。自分が探してたのはお前じゃないとちゃんと思ってください。

私の気持ち悪いこのこころを、深刻には受け止めないでください。まるで阿部貞のようだ、恐ろしい女だと言って冷たい目を向けられるのはちょっと耐え難いんです。


私はいま、煙草を吸いながら、この面倒な思考をまた放棄して、身だしなみをどう整えて、明日は何を着るべきかぼうっと考えています。

わがままかもしれないけど、諦めないで見つけてください。



追伸

頭が痛くなった時はすぐに頭痛薬を飲みますか?

ママが、あんまり痛いからってすぐに飲むなと言うんです。

私は頭の痛いのは嫌だと、率直に思うので、勿論飲みすぎないようにしながらすぐに飲んでしまいます。