歴史好き 中休みです。

 

先日、片側二車線の国道を走行中のことです。

 

この日は交通量が多くて両車線とも車が並んでいたので
もれも流れに合わせて走行していました。

 

60km/hで流れているので渋滞ではありませんが
ほぼ等間隔に車が走行していたので
車線変更せずに内側(右車線)を走っていると
左のドアミラーにバイクが見えました。

 

尋常じゃないスピードで接近してきます。

 

『ん!?速すぎない!?』
とドアミラーを二度見してしまいました。

 

もれのすぐ後方でグンと左へ進路変更すると
もれを追い越して、車線間のライン上を
物凄いスピードで走り去っていきました。

 

相対速度から考えて90km/h以上でしょう。

 

『命知らずだなぁ・・・。』
と思った瞬間にもれ車のすぐ左後方でバンッ!!!
という物凄い音というか振動がありました。

 

『!? 追突された!?』

と思った瞬間に左のドアミラーすれすれを
2台目のバイクが追い越していきました。

 

『何!?今の振動は@@;』

 

ドアミラーで車体を見ても
キズも凹みも見えませんが
間違いなく車体が揺れたのです。

 

『バイクが当たったわけではなさそうだけど・・・
 まさかもれ車を殴って通過した?』

と思ったら、ヤツがもれ車の前の車を追い越すために
また進路変更したのですが
その際にバンッ!!!とまたあの音です。

 

進路変更時にアクセルを一気に吹かしたか
ギアチェンジをして起こったアフターファイヤーとか
バックファイヤーとかいう現象の音だったようで
接触したわけでは無さそうなのでホッとしました。

 

そのバイクのアフターファイヤー音は
その後も2,3回聞こえました。

 

『毎回ギアチェンジするたびにバンバン言わしてるのか・・・
 傍迷惑な・・・;』

 

その後、音が聞こえなかったのは
物凄いスピードで走っているので
音が聞こえない距離まで離されたのでしょう。

 

運転が下手なのか?
改造してガソリンの噴出量と

点火のタイミングが狂っているのか?


少なくとも運転していたバイカーは狂っていますがw

 

それにしても車が揺れるほどの近距離を
すり抜けていくなんて・・・
もし道路上に空き缶などが落ちていて
もれがそれを踏まない様に車線内で少しでも左に寄ったら
接触するほどの近距離なのです。

 

そして接触した場合は恐らく車の方が
重い責任を負わされるのです。

 

ちゃんとルールやマナーを守って走行している
バイカーの方が圧倒的多数なのに
こういう少人数のせいで印象が悪くなるのです。

 

それにしても心臓に悪かった@@;
事故ったかと思ったじゃないか・・・;

<つづき>

 

佐久間氏(さくま)

 

本貫:安房国平群郡狭隈(さくま)郷
現在:千葉県安房郡鋸南町下佐久間、上佐久間付近
本姓:平氏(桓武平氏三浦氏庶流)
通字:朝、盛、勝
著名な人物:佐久間信、佐久間

 

三浦氏から分家した佐久間家村に始まります。
佐久間家村は同じ三浦氏流の和田氏から養子を迎え
家督を継がせました。
承久の乱で上総国夷隅郡と尾張国愛知郡を与えられ
子孫が移り住みました。
尾張佐久間氏は4つの家に分かれ、佐久間盛重、

佐久間信盛は織田信長の重臣となりました。
佐久間信盛は石山本願寺との戦いの後、追放されましたが
佐久間盛重の血統は徳川氏の旗本として仕えました。
江戸幕末の佐久間象山は尾張佐久間氏の
流れを汲むとされています。

 


佐々木氏(ささき)

 

本貫:近江国蒲生郡佐々木荘
現在:滋賀県近江八幡市安土町
本姓:源氏(宇多源氏扶義流)
通字:綱、高、頼、久
著名な人物:

 佐々木秀義、佐々木定、佐々木(京極)氏(道誉)

 

佐々木氏は近江源氏と呼ばれ、家祖の佐々木秀義は

保元・平治の乱で敗れて奥州藤原氏を頼って
逃亡する途中で相模国の渋谷氏に保護されると
源頼朝の挙兵に従って佐々木荘に復帰しました。
佐々木秀義の4人の子が近江国を分割し

宗家を三男・泰綱が相続し、のちに六角氏となりました。
長男・重綱は大原氏、次男・高信は高島氏、四男・氏信は
京極氏の祖となりました。
五男・佐々木義清は出雲国・隠岐国の守護職に任じられ
出雲国へ下向して出雲源氏となりました。
佐々木氏の末裔には尼子氏、山中鹿介、黒田氏、佐々氏、

木村重成、新発田重家、今井宗久、杉田玄白、
間宮林蔵などが挙げられますが系図が不詳な人物もあります。

 

 

佐竹氏(さたけ)

 

本貫:常陸国久慈郡佐竹郷
現在:茨城県常陸太田市佐竹
本姓:源氏(清和源氏源義光嫡流)
通字:義
著名な人物:佐竹篤、佐竹昭、佐竹重、佐竹

 

源義光の嫡流で常陸源氏とも呼ばれ

甲斐武田氏は庶流にあたります。
平安時代後期には常陸平氏と姻戚関係を結び
伊勢平氏(のちの平家)や奥州藤原氏とも親密になり
常陸国一円に強大な勢力を築きました。
奥州合戦で旗(源氏の白旗)が源頼朝の旗と似ていたため
旗の上に扇を付ける様に命じられたことから佐竹氏の家紋が
月に扇(日の丸扇)になったとされています。
豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し所領を安堵されましたが
関が原の戦いでは中立を保ったため出羽国へ転封され
出羽久保田藩主として明治維新まで存続しました。

 


佐々氏(さっさ)

 

本貫:不明
現在:不明
本姓:
 源氏(宇多源氏佐々木(六角)氏庶流)
 藤原氏?
通字:政
著名な人物:佐々成、佐々

 

佐々氏の出自は不明瞭ですが六角氏(佐々木氏)の

庶流というのが有力な説とされています。
佐々氏は尾張国織田氏に仕え、佐々成政は鉄砲隊を
指揮するなどして重臣の列に並び、柴田勝家の与力として
越中半国を与えられました。
本能寺の変後、徳川氏と結んで羽柴氏に反抗したため
所領を没収され、秀吉の御伽衆として仕えました。
九州征伐で肥後国を与えられましたが国人一揆を
防げなかった責任から切腹しました。
佐々成政の長子・松千代丸は長島一向一揆との戦いで
落命しており、養子を迎えていましたが家督相続を許されず
大名としての佐々氏は滅亡しました。
佐々氏庶流の子孫・佐々宗淳(成政の甥)は徳川光圀に仕え
水戸黄門の助さん(佐々木助三郎)のモデルとなりました。

 


佐藤氏(さとう):信夫(しのぶ)佐藤氏

 

本貫:陸奥国信夫地方
現在:福島県福島市付近
本姓:藤原氏(藤原北家秀郷流)
通字:信
著名な人物:西行(佐藤義清(のりきよ))、佐藤継
 佐藤忠

 

藤原秀郷の子・千常の家系が佐渡守に任じられ
渡の原氏を短縮したとも、藤原氏の補佐役の
衛門尉を短縮したとも言われていますが、詳細は不明です。
平安時代後期に鳥羽上皇の北面武士を務めた佐藤義清は
和歌に通じていましたが出家して西行と名乗りました。
西行には男児が居たようですが不詳です。
佐藤氏のうち、信夫(現・福島県)に移った信夫佐藤氏は
藤原清衡の孫を娶った縁から奥州藤原氏と親密で
佐藤継信、忠信兄弟は藤原秀衡に仕えて、のちに義経の
郎党となり源平合戦、義経追討戦で落命しました。
兄弟の父・佐藤基治は奥州合戦後、小豪族に没落しました。
南北朝時代に入ると伊勢国へ移住した一族、相馬氏や
佐竹氏に仕えた一族、佐藤忠信の子孫で現・宮城県の
馬籠佐藤氏、美濃佐藤氏などに分かれました。
美濃佐藤氏の分家には寒河江氏に仕えた一族があり
寒河江氏が滅ぶと最上氏家臣となりました。
その他に常陸国、阿波国、紀伊国などの佐藤氏があります。

 


里見氏(さとみ)

 

本貫:上野国碓氷郡里見郷
現在:群馬県高崎市里見
本姓:源氏(清和源氏新田氏庶流)
通字:義
著名な人物:

里見実、里見堯、里見弘、里見

 

里見氏の祖は新田義重の庶長子・新田(里見)義俊で
庶宗家と呼ばれ、新田一族の中でも宗家に次ぐ家格でした。
里見義俊の子・義成は鎌倉御家人となりました。
新田氏の鎌倉幕府討幕に従い、越後国守護職に任じられました。
南北朝時代は南朝に味方しましたが、里見宗家の没落で
北朝に味方する一族も現れました。
南朝方の里見氏は足利直義の敗北で所領を失い
南北合一後、鎌倉公方から常陸国に所領を与えられましたが
結城合戦に敗れて安房国へ逃亡しました。
内紛や後北条氏との抗争を繰り返し、小田原征伐後に

豊臣秀吉の怒りを買い、安房国のみに減封され

関が原の戦い後には館山藩主となりましたが改易され

伯耆国倉吉へ転封(配流と同等)されました。
倉吉藩は嗣子断絶で改易されました。
里見氏の分家には越後国守護期に上杉氏家臣となった
大井田氏、観応の擾乱で没落した美濃里見氏、
出羽国に下向した出羽里見氏(天童氏)があります。

 

<つづく>

<つづき>

 

斎藤氏(さいとう)

 

本貫:越前国、加賀国
現在:福井県、石川県
本姓:藤原氏(藤原北家利仁流)
通字:利(美濃斎藤氏)
著名な人物:斎藤道三(政)、斎藤義龍、帰蝶(濃姫)

 

斎藤氏は宮(さいぐう)頭・原叙用の子孫とされ

北陸に勢力を築き、加賀斎藤氏と越前斎藤氏に分かれました。

加賀斎藤氏は堀氏、林氏、富樫氏などへ繋がり
越前斎藤氏は竹田氏、疋田氏、美濃斎藤氏、

長井斎藤氏(武蔵斎藤氏)へと繋がっていきます。
美濃斎藤氏は美濃国守護・土岐氏の守護代となり
のちに足利氏の直臣となって高い官位に就きましたが
内訌を生じ、庶流の長井氏の権限を強めてしまいました。
のちの斎藤道三は長井氏の名跡を継ぐと、病死した主君で

守護代の斎藤利良の家督を相続して斎藤利政と名乗り

守護・土岐頼芸を追放して美濃国を支配しました。
斎藤道三の孫・龍興は織田氏に敗れて逃亡し

長島一向一揆、三好三人衆に与した後、朝倉氏の

保護下に入って織田氏と戦い戦死しました。

 


酒井氏(さかい)

 

本貫:
 三河国碧海郡酒井村
 三河国幡豆郡坂井郷
現在:
 愛知県刈谷市西境町酒井神社付近?
 愛知県西尾市付近
本姓:
 大江氏(忠成流海東氏庶流)?
 源氏(清和源氏新田氏庶流)?
通字:親、忠
著名な人物:酒井

 

酒井氏は松平(徳川)氏庶流で、徳川氏の系図は

仮冒の可能性が高いとされるため、出自は不詳です。
松平氏初代・松平親氏の子・広親が分家して酒井氏を名乗り
広親の子が左衛門尉(さえもんのじょう)家と
雅楽頭(うたのかみ)家に分かれたとされています。
前者は徳川四天王・酒井忠次に繋がる家系で
後者は西尾城代・酒井正親に繋がる家系です。
いずれも徳川氏の関東移封に伴い関東へ移り
それぞれ下総国臼井(現・千葉県佐倉市)と
武蔵国河越(埼玉県河越市)に所領を与えられました。

 


酒井氏(さかい):上総酒井氏

 

本貫:上総国東金
現在:千葉県東金市
本姓:
 源氏(清和源氏土岐氏庶流)?
 大江氏(大江忠成流海東氏庶流)?
 源氏(清和源氏新田氏庶流)?
 藤原氏(藤原北家秀郷流波多野氏庶流)?
通字:政、房、治など
著名な人物:酒井定隆

 

上総酒井氏の出自は不詳です。
土岐氏一門という説、三河酒井氏の庶流という説、
波多野氏の庶流という説など様々です。
室町時代の上総酒井定隆は土気城、東金城に勢力を
広げると長男と三男に所領を分けました。
古河公方と小弓公方が争うと上総酒井氏も
両派に分かれて戦ったとされています。
里見氏に味方して後北条氏と戦いましたが
度重なる攻撃に降伏しました。
小田原征伐後に改易され、のち徳川氏に仕えました。

 


寒河江氏(さがえ)

 

本貫:出羽国寒河江荘
現在:山形県寒河江市
本姓:大江氏
通字:元、広など
著名な人物:寒河江兼

 

奥州合戦後、鎌倉幕府の重鎮・大江広元は寒河江荘を
与えられ、嫡男・親広に相続させました。
大江親広は鎌倉にあり、寒河江荘には代官を置きましたが
承久の乱で敗れて寒河江荘に隠棲しました。
大江親広は父・広元の死後に赦免されましたが
寒河江荘の北部は北条氏によって没収されました。
霜月騒動で一族の大半が討死すると大江元顕は
北条氏から逃れて寒河江荘に下向し

没収されていた旧領を奪還しました。
のちに斯波氏傘下に入り、寒河江氏を名乗りました。
室町時代には最上氏と縁戚となり、伊達氏と戦いましたが
天正最上の乱では最上義守に味方して敗退し
最上義光によって滅亡しました。

 


榊原氏(さかきばら)

 

本貫:伊勢国一志郡榊原村
現在:三重県津市榊原町
本姓:源氏(清和源氏仁木氏流)
通字:長、政
著名な人物:榊原康

 

徳川氏同様に系図を創作した可能性が指摘されています。
徳川氏に仕えた榊原氏は分家で、本家は伊勢国で

北畠氏に仕えた家系だという説もあります。
三河国へ移った榊原氏は松平氏に仕え、榊原康政は
特に重用され、徳川四天王に数えられました。
榊原康政の子・康勝の死後、嗣子断絶の危機に陥りましたが
徳川家康が康勝の甥(兄の子)を後継者としました。
分家から養子を迎えて数回の断絶の危機を乗り切りました。

 


相良氏(さがら)

 

本貫:遠江国榛原郡相良荘
現在:静岡県牧之原市相良
本姓:藤原氏(藤原南家為憲流工藤氏庶流)
通字:頼、長、義など
著名な人物:相良滋、相良晴広、相良

 

相良氏は工藤氏庶流で日向伊東氏と同族です。
同族の伊東氏が源頼朝に反抗したため、頼朝の挙兵には
参加せず、鎌倉幕府成立後に肥後国に追放されました。
のちに赦されて多良木荘(上球磨)と人吉荘(下球磨)を
与えられ、それぞれ上相良氏、下相良氏が統治しました。
室町時代に下相良氏が上相良氏を滅ぼして
上下球磨地方を掌握すると、肥後国守護・菊池氏から
球磨、八代、葦北の領有を許されました。
戦国時代に島津氏の侵攻を受けて臣従しました。
豊臣秀吉の九州征伐で劣勢になると重臣・深水宗方が
秀吉の元へ出頭して嘆願したことで所領を安堵されました。
関が原の戦いで東軍に寝返り、人吉藩として明治維新まで
存続し、島津氏、相馬氏(奥州)と並んで700年以上
同じ土地を統治した大名は世界史上でも稀有とされています。

 

<つづく>

<つづき>

 

小寺氏(こでら)

 

本貫:美濃国池田郡小寺
現在:岐阜県揖斐郡池田町小寺
本姓:源氏(村上源氏赤松氏流宇野氏庶流)
通字:職
著名な人物:小寺政

 

赤松氏の分家・宇野氏の庶流(婿養子とも)が小寺氏を
名乗ったとされています。
小寺氏は兄弟が美作国岩屋城主と播磨国姫路城主を

分割して治めることになりました。
どちらが宗家だったのかは明白ではありませんが
のちに勢力を伸ばした姫路の家系が宗家とされています。
赤松氏が分家や浦上氏の台頭で衰退しても

小寺氏は赤松家臣として忠勤しました。
毛利氏、織田氏が進出すると小寺政職は
重臣・小寺孝高(のちの黒田孝高・官兵衛)の献策で
織田氏へ臣従しましたが、別所氏、荒木氏と共に

毛利方へ寝返ったため、織田氏に攻められ

備後国へ逃亡して滅亡しました。

 


後藤氏(ごとう):藤原利仁流

 

本貫:備後国?
現在:広島県?
本姓:藤原氏(藤原北家利仁流斎藤氏流前田氏庶流)
通字:基
著名な人物:後藤次(又兵衛)

 

藤原利仁の流れを汲むとされており、家祖は藤原公則で
備後守となって備原氏から後藤氏と名乗りました。
後藤氏は播磨国、肥前国、美作国に分かれて
播磨後藤氏は別所氏、小寺氏に仕えたとされており
のちに後藤基次が黒田氏に仕えて肥前国に移りました。
黒田長政との確執から出奔した後藤基次は
大坂の陣の大坂方主力武将として知られています。

 


後藤氏(ごとう):藤原秀郷流

 

本貫:不明
現在:不明
本姓:藤原氏(藤原北家秀郷流)
通字:不明
著名な人物:後藤象二郎

 

出自は不明瞭ですが、藤原秀郷の子孫の複数の家系が
後藤氏を名乗っています。
土佐藩重臣の後藤象二郎などがこの系統とされています。
六角氏家臣、伊達氏家臣などにも
藤原秀郷の末裔とされる後藤氏が存在します。

 


小西氏(こにし)

本貫:不明
現在:不明
本姓:藤原氏(藤原北家秀郷流丹波内藤氏庶流)
通字:行
著名な人物:小西

 

藤原秀郷流の丹波内藤氏の分家・次忠が小西氏を
名乗ったのが始まりとされていますが、出自は不明瞭です。
小西氏は堺の商人だったとされています。
小西行長は宇喜多直家に仕えて、羽柴氏への使者を務めて
秀吉に気に入られ、直家の死後、秀吉の直臣となりました。
豊臣秀吉から肥後国南半国を与えられましたが
関が原の戦いで石田三成、宇喜多秀家との縁から西軍に
属して戦後に斬首されました。
肥後国で所領を守っていた弟・小西行景も
加藤清正に敗退し自刃したため、小西氏は滅亡しました。

 


小早川氏(こばやかわ)

 

本貫:相模国土肥郷小早川
現在:神奈川県小田原市早川
本姓:
平氏(桓武平氏良文流土肥氏庶流)
源氏(清和源氏義光流平賀氏庶流)
大江氏(大江氏季光流毛利氏庶流)
通字:平、景
著名な人物:小早川景平、小早川正、小早川隆

 

土肥氏から分家した小早川遠平が平家討伐で功を挙げ
安芸国沼田荘(ぬたのしょう)の地頭に任じられ
養子の小早川景平(清和源氏平賀氏)が移り住みました。
承久の乱で竹原荘を加増されると嫡流が沼田小早川氏、
分家が竹原小早川氏となりました。
沼田小早川氏は当主の早世が続いて弱体化し
竹原小早川氏は勢力を拡大しました。
戦国時代に毛利氏と婚姻を結んでいた竹原小早川興景が
嗣子断絶すると、毛利元就の三男・隆景が
竹原小早川氏の家督を相続しました。
出雲遠征で沼田小早川正平が戦死し、嫡子・繁平が
失明して出家すると竹原小早川隆景が繁平の妹を娶って
両小早川氏は毛利氏家臣(大江氏庶流)になりました。
小早川隆景は豊臣政権下で五大老となり伊予国主、
続いて筑前国主になりましたが実子が無かったため
豊臣秀吉の甥・秀秋(豊臣氏)が家督を相続し
豊臣一門の大名になりました。
小早川隆景の弟は久留米小早川氏として分家しましたが
のちに毛利家臣に帰参しました。

 


西園寺氏(さいおんじ)

 

本貫:京都北山西園寺(北山殿)
現在:京都府京都市上京区西園寺付近
本姓:藤原氏(藤原北家閑院流庶流)
通字:公
著名な人物:西園寺

 

鎌倉時代中期に公家・西園寺家は伊予国宇和郡を
横領に近い形で所領にしました。
西園寺家は建武の新政前後に衰退し、のちに断絶しましたが
養子を迎えて、現在まで名跡は存続しています。
南北朝時代に庶流の西園寺公俊が宇和郡へ下向しました。
在地豪族らを懐柔して宇和郡での地盤を固めましたが
戦国時代に入ると河野氏、一条氏、大友氏の侵攻で
弱体化し、長宗我部氏に敗退して臣従しました。
豊臣秀吉の四国遠征に降伏し、宇和郡の領主となった
戸田氏配下に入りましたが西園寺公広が殺害されて

西園寺氏は滅亡しました。

 

<つづく>

<つづき>

 

高坂氏(こうさか):香坂氏

 

本貫:信濃国佐久郡香坂
現在:長野県佐久市香坂
本姓:滋野氏(滋野氏流根津氏庶流)
通字:宗、昌
著名な人物:高坂

 

高坂氏は香坂氏とも表記され、東信濃の滋野氏の流れを
汲む禰津氏(根津氏)の庶流とされています。
承久の乱で執権・北条氏に味方して上皇方から没収した
北信濃に地頭として移り住んだとされています。
南北朝時代には北条氏残党に与し、その後は南朝方として
北朝方の村上氏、高梨氏、小笠原氏などと戦いました。
南信濃にも高坂氏がありますが両者の関係は不明です。
戦国時代に武田氏に臣従し、高坂宗重が上杉氏との

密通の嫌疑で誅殺されると娘婿の春日虎綱が

高坂氏の名跡を継ぎ、高坂昌信と改名しました。
ただし、高坂昌信は5年ほどで春日氏に復しています。
武田氏滅亡後に上杉景勝が高坂氏に所領を安堵しており
高坂氏の一部が生き残っていたと考えられています。
その後も高坂氏は上杉家臣として仕えました。

 


香宗我部氏(こうそかべ)

 

本貫:土佐国香美郡宗我部郷
現在:高知県香南市野市町付近
本姓:清和源氏義光流甲斐一条氏庶流
通字:通
著名な人物:香宗我部親秀

 

甲斐一条氏の家臣・中原秋家が宗我部郷の地頭として

下向し、主君・一条忠頼が源頼朝に暗殺されると

忠頼の遺児を中原氏の養子に迎えました。
この遺児が美郡の宗我部氏から香宗我部秋通と名乗り
養父・中原秋家は土佐山田に移って山田氏の祖となりましたが
室町時代までの系譜の信憑性が問われています。
戦国時代に長宗我部国親に降り、国親の三男・親泰を
養子に迎えて家督を譲りました。
関が原の戦いで長宗我部氏が改易されると長宗我部氏流の

香宗我部貞親は佐倉藩主・堀田氏、仙台藩・伊達氏と
仕えましたが子に恵まれず養子を迎えて断絶を免れました。
元々の香宗我部氏の血統は土佐国に残り
土佐藩・山内氏に仕えました。

 


河野氏(こうの)

 

本貫:伊予国河野郷
現在:愛媛県松山市河野地域
本姓:越智氏
通字:通
著名な人物:
 河野直(弾正少弼)、河野宣(左京大夫)、
 河野直(伊予守)

 

河野氏は伊予越智氏の流れを汲むとされ、松山市北部の
旧北条市付近から出た氏族とされています。
平家傘下の伊予国司に仕える役人でしたが

源平合戦で源氏に味方して鎌倉御家人になりました。
鎌倉時代末期に幕府に味方して衰退しましたが

伊予国守護に任じられて再興しました。

しかし細川氏や分家の予州家河野氏との内紛で

再び衰退し、長宗我部氏の進出、豊臣氏の
四国遠征で大名としての河野氏は滅亡しました。

 


極楽寺氏(ごくらくじ):極楽寺北条氏

 

本貫:相模国鎌倉極楽寺付近
現在:神奈川県鎌倉市極楽寺付近
本姓:平氏(桓武平氏高望流北条氏庶流)
通字:時
著名な人物:北条重

 

家祖・北条重時は極楽寺殿と呼ばれましたが、子孫は
極楽寺氏ではなく極楽寺流北条氏と呼ばれます。
長子・北条時継は疱瘡を患ったことで廃嫡となり

極楽寺流の嫡流は赤橋家とされ、時継は

母方の苅田姓を名乗りました。
苅田家以外の極楽寺流庶家には常盤家、普恩寺家、
塩田家、坂田家などがあります。
極楽寺流北条氏は得宗家、名越家に次ぐ家格とされ
下位に政村流、金沢流、伊具流があります。

 


児玉氏(こだま)

 

本貫:武蔵国児玉郡
現在:埼玉県本庄市付近
本姓:有道氏
通字:行、就
著名な人物:児玉忠、児玉方、児玉

 

有道氏の流れを汲む武蔵七党のひとつとされ
嫡流は本庄に移って庄氏を名乗ったとされています。
庄氏は備中国の地頭職を与えられ、一部が移り住んで
備中庄氏となりました。
やがて武蔵国の庄氏嫡流は本庄氏を名乗り
児玉氏は分家が名乗る名字になりました。
承久の乱の功で安芸国に所領を与えられると一部が
移り住み安芸児玉氏となりました。
南北朝時代に本庄氏と児玉氏は新田義貞に味方して衰退し
山内上杉氏、後北条氏に仕えましたが、戦国時代に

成田氏によって一族の大半が滅ぼされました。
安芸児玉氏は大内氏、毛利氏に仕え、児玉就忠は

毛利元就の側近として活躍し、毛利水軍を率いました。
 

<つづく>

歴史好き 名前編 再開です。

 

黒田氏(くろだ)

 

本貫:播磨国押部郡黒田村
現在:兵庫県神戸市西区平野町黒田
本姓:
 藤原氏?
 源氏(宇多源氏佐々木氏流)?
 赤松氏(村上源氏季房流)?
通字:隆、長
著名な人物:黒田職、黒田孝高、黒田

 

近江国佐々木氏の分家という説がありますが、史料の
信頼性が低いため疑問視されています。
黒田長政が寄進した日光東照宮の鳥居に
「黒田筑前守藤原長政」と刻まれ、家紋も黒田藤巴紋で
「藤」を使っていることから、藤原氏流を称していたか

主家・小寺氏の藤橘巴紋を継承したと考えられています。
近江国の佐々木氏に仕えていましたが出奔し
播磨国守護・赤松氏家臣の小寺氏に仕えました。
浦上氏の台頭後も赤松氏家臣として浦上氏と戦い
黒田職隆は小寺氏から妻を娶り、小寺職隆と名乗りました。
浦上氏が毛利氏と結ぶと小寺孝高(官兵衛)の進言で
主君・小寺政職は一時的に織田氏に臣従しましたが
毛利氏へ寝返ったため、小寺孝高は黒田氏に復しました。
黒田氏は豊臣政権下で豊前国中津を与えられ、
豊臣秀吉の死後、黒田長政は徳川氏に接近して
筑前藩主となり、名跡は明治維新まで存続しましたが
嗣子断絶して一橋徳川家、京極氏、島津氏、藤堂氏から
婿養子を迎えています。

 


源氏(げんじ・みなもと):摂津源氏・多田源氏

 

本貫:摂津国川辺郡多田
現在:兵庫県川西市多田
本姓:源氏(清和源氏)
通字:頼、綱
著名な人物:
源(馬場)政、源(馬場)仲、源(多田)行

 

以前に書きましたが源の姓は

皇族から臣籍降下した氏族に与えられる本姓です。

清和源氏の源満仲が摂津国多田で武士集団を形成し
摂津源氏となりました。
内裏の警備をする大内守護を務めて、大和源氏、
河内源氏など全国の武家源氏へと繋がりました。
嫡流は多田を本拠にした事から多田源氏とも呼ばれます。
武家としては河内源氏が主流となり、多田源氏は公家に
仕えることが多かったとされています。
平安時代末期、多田源氏の棟梁・源頼政は平清盛に従い
三位まで昇進して源三位(げんざんみ)と呼ばれました。
源頼政は摂津国渡辺津(現・大阪市中央区)を本拠にして
馬場氏を名乗ったとされています。
平家の横暴に対して反乱を起こして討死しましたが
源頼政の子孫は大河内氏、太田氏(太田道灌など)や
下間氏(本願寺僧兵)、馬場氏へと繋がりました。
鹿ケ谷の陰謀を密告した多田行綱も多田源氏の一族です。

 


源氏(げんじ・みなもと):河内源氏

 

本貫:河内国古市郡壷井
現在:大阪府羽曳野市壷井
本姓:源氏(清和源氏)
通字;義、頼
著名な人物:源家、源朝、源光、源朝、源

 

摂津源氏・源満仲の三男・頼信が河内国壷井を本拠に
河内源氏となり、頼信、頼義、義家が三代に渡り、武功を
挙げて、主家・摂津源氏より強い勢力を築いて

武家の棟梁と呼ばれるようになりました。
源義忠が暗殺されて源為義が河内源氏の棟梁になると
平氏の台頭と為義自身の問題などもあって衰退しました。
ただし近年の研究では為義期の源氏不遇説や為義の
棟梁説について否定的な見解があります。
源為義と子・義朝が対立したため、義朝の子・頼朝が
征夷大将軍になった後、為義に関する史料を隠滅した
という説も存在します。
平家を打倒した源頼朝が征夷大将軍に就任して武家の
棟梁と呼称されましたが、武家の棟梁、源氏の棟梁という
呼称は頼朝が全武家を統率することを正当化するために
鎌倉幕府が創ったともされています。
源頼朝流以外の清和源氏には源義家の弟・義光が
武田氏・南部氏に繋がり、義家の四男・義国が

新田氏、足利氏に繋がっています。
源義朝の弟・義賢は義朝に敗れて戦死しましたが
木曽に逃げた子が木曽(源)義仲となりました。

 


源氏(げんじ・みなもと):大和源氏

 

本貫:大和国宇野
現在:奈良県
本姓:源氏(清和源氏)
通字:親
著名な人物:源頼

 

摂津源氏・源満仲の次男・頼親が大和国司となり
大和源氏となりました。
大和国は興福寺など南都勢力が強力で

平安時代末期まで興福寺との争いが続きました。
そのためか、大和源氏は地方豪族のまま衰退しました。
子孫には陸奥石川氏などがあるとされています。

 


高氏(こう)

 

本貫:下野国
現在:栃木県
本姓:高階氏
通字:師
著名な人物:高直、高

 

高階姓は飛鳥時代から朝臣に与えられていた

本姓のひとつで歴代天皇の側近などを務めた氏族です。
平安時代後期には没落していましたが高階氏の一部は
源義国に従って下野国へ移り住み高(こう)氏を名乗って
義国の子・義康に始まる足利氏に代々執事として仕えました。
鎌倉時代末期に高師直が足利尊氏の執事になりました。
高師直は高一族の傑物と呼ばれる人物で足利尊氏を
表裏から支えましたが、尊氏の弟・直義と対立して
観応の擾乱を起こしました。
一時、足利直義を失脚させましたが直義が南朝方の支援を
受けて反撃に転じると敗退し、兄・師泰と共に暗殺されました。
高師直兄弟の暗殺で高氏は没落しました。
一時的に高師直の従兄弟・師有が関東管領になりましたが
上杉氏が関東管領を世襲すると高氏は完全に没落しました。
分家に常陸国の大高氏、南氏(南部氏庶流とは別)、
毛利氏家臣・国司氏などがあります。

 


香西氏(こうざい)

 

本貫:讃岐国香川郡香西
現在:香川県高松市香西南町付近
本姓:藤原氏(藤原北家家成流)
通字:資、元
著名な人物:香西明、香西長、香西成、香西佳清

 

藤原家成の子孫が讃岐国司となって讃岐国へ下向し
嫡流が羽床(はゆか)氏、分家が大野氏、新居(にい)氏と
名乗り、新居氏が香西に移り住んで香西氏を名乗りました。

羽床、大野、新居、香西の地名は

現在の高松市から綾川町付近に現存します。
嫡流の羽床氏は鎌倉幕府に敵対して没落し、香西氏の
傘下に組み込まれました。
南北朝時代には香西氏が北朝、羽床氏が南朝として争い
南北合一後は両者とも讃岐国守護・細川氏に仕えました。
応仁の乱では細川勝元の側近として活躍し香川氏、
安富氏、奈良氏と共に細川四天王と呼ばれました。
香西元直は細川氏の補佐として京都に常駐し、讃岐国の
香西領は弟・香西元綱が支配して、上香西氏(京都)と
下香西氏(讃岐国)に分かれました。
上香西氏は三好氏、織田氏に敗退して衰退しました。
下香西氏は三好長慶の弟・十河一存の傘下に入り
その後、土佐国から進出した長宗我部氏に臣従しました。
下香西氏は羽柴秀吉の四国遠征に敗れて下野し
大名としての香西氏は滅亡しました。

 

<つづく>

<つづき>

 

所々にある街灯の明かりでは

階段を踏み外しそうな暗さになっていたので

スマホのライトで足元を照らしながら

奥社を後にしました。

 

坂を下っていると友人スヌーピー氏が
「あ!ムササビが飛んだ!」と
もう既に完全な夜空と化した空を指差しています。

 

もれが見上げた時にはもう居ませんでした。

 

もれはここまでの疲労で膝が笑っているので
上を見ながら歩く余裕は無かったのです^^;

 

すると森の奥からグルゥグルゥ・・・
という鳴き声が聞こえました。

 

文字にすると唸り声のように見えますが

唸り声ではなく鳴き声でした。

 

スヌーピー氏「何の声だろう?」
もれは「カラスかな?」と答えました。

 

帰宅後にネットで調べると
どうやらムササビの鳴き声だったようです。

 

グルゥグルゥというのが

ムササビの鳴き声だとは思いませんでした。

興味のあるかたはネットで探してみてくださいw

リンクも貼らないとは不親切^^;

 

本宮までは15分ほどでしたが
到着したときには人気がありませんでした。

 

下山用の階段を下って旭社の横を抜けて
表参道を下るとお土産屋も既に閉店していて
観光地にしては夜がとてつもなく早い!

という印象ですね。

 

さて、この日はこれで帰宅しましたが
意外と筋肉痛にはなりませんでした。

 

やや足が張ってはいましたが
筋肉痛とは言えない程度でしたので
もれ家の初詣よりは楽ですね。

 

そこでもれは思ったのです。

 

『毎週こんぴら登山すれば
初詣までのトレーニングにちょうど良いかも?』

 

ということでスヌーピー氏に提案して
毎週本宮まで登ることになりました。

奥社はさすがに遠いので^^;

 

いつも通り、ブログ記事は事前にまとめて書いて

公開予約設定しているので

この記事の公開時点で3回登っています。


2度目も息は絶え絶えで、翌日、左足ふくらはぎに

ちょっとした筋肉痛が出ました。

 

3度目も本宮到着時はフラフラでしたが

たいした筋肉痛は出ていません^^

 

この調子でトレーニングです!

 

<おわり>

<つづき>

 

薄暗くなっているので街灯の光が

届く範囲しか可視範囲の無い状況で

後ろからタッタッタ・・・と足音がしました。

 

『カップルが走り始めたのかな?』

と振り向くと後続のカップルともれ達の間に
ランニング中のおじさんが走ってきていました。

 

ジョギングではなくランニングです。

つまり本気走りです@@;

 

道を開けるとそのまま通過して
階段に差し掛かってもそのまま
ランニングで登っていきました。

 

「タフやなぁ・・・」

 

こんぴらマラソンのために

毎日走っているのでしょうか?

軽快に登っていきました。

 

もれ達は今までと同じペースで

よいしょ・・・よいしょ・・・と登っていきます。


5分強が経過したところで
ランニングおじさんが坂を下ってきました。

 

『早!ってことは・・・奥社は近いのかな?』

 

おじさんはすれ違い様に「こんばんわ!」と
声をかけて通り過ぎて行きました。

 

追い抜くときは無言で、すれ違うときは挨拶あり・・・
なにかそういうルールがあるのでしょうか?

 

不思議に思っていると
明らかに奥社と思しき建物が見えてきました。

 

本宮から20分ほどで奥社に到着しました。

奥社の係員が詰め所の
戸締りをしているところだったようで

 

「こんばんわ。こんな遅くに登られたのですね。」
と声をかけられました。

 

奥社の境内は狭くて
15m×30mくらいでしょうか?
薄暗くて正確にはわかりませんでした。

 

奥社に向かって左手には
烏天狗と天狗の人形があるそうですが
暗くて判別できませんでした。

 

「見えないね~」などと言っていると
後続のカップルも奥社に到着しました。

 

ちなみに奥社から見た景色は完全な夜景で
カップルはお参りせずに
境内の隅から夜景を眺めています。

 

『もしかしたらもれ達が居るから
 お参りせずに待っているのかな?』
と思い、呼吸も整ったので下山開始です。

 

感想としては本宮までのキツさを
100とするなら
本宮から奥社までのキツさは
60くらいかな?

キツくはないけど時間はかかりました。

 

<つづく>

<つづき>

 

本宮から少し歩いて気づいたのですが
もれ達の後ろ、約15mほどの距離に
カップルがついてきていました。

 

そういえばこのカップルは
表参道でもれ達が登り始めた時も
後方を歩いていました。

 

もれ達の会話を聞いて奥社へ行ってみたくなったのか
最初からその予定だったのかは不明です。

 

20代後半と言った感じで二人の距離感から
新婚旅行なのかな?
という印象を受けました。

裏山C~ですなぁ。

 

ヘトヘトなもれと違って若いだけに
景色を眺めたりしながら楽々とついてきますが
もれ達から10mくらいまで近づくと立ち止まって
木を見上げたりして
もれ達を追い抜こうとしないので
前述の「もれ達の会話を聞いていて・・・」
という風に思ったのです。

 

さてさて、道中は石敷きの平らな道と
ちょっとした階段の繰り返しで
本宮までの経路よりは楽ですが
既に体力を削られているので
スタスタ歩くことはできません。


よいしょ・・よいしょ・・と言った感じですね。

 

10分ほど歩いて気づきましたが
本宮の境内から見た町の景色は
所々の窓に明かりがついている程度の

まだまだ明るい感じでしたが
奥社への道は森の中ということも手伝って

薄暗くなってきました。

 

車に乗っていたら
フォグランプから通常のランプに
切り替えようかと迷うくらいの薄暗さです。

 

奥社までの道はところどころに
街灯が設けられているので
この時間帯にはそれで充分でしたが

登った経験の無いもれには行程の

どのくらいまで来ているのか知ることはできません。

 

『降りる頃には真っ暗かも・・・?』

 

<つづく>

<つづき>

 

奥の院というのは奥社と記載される

その名の通り

本宮よりも山の奥に造られた社です。

 

多くの観光客は本宮まで登ったら

参拝して下山します。

もれも過去に登った際は本宮まででした。

 

友人スヌーピー氏は

「この先は5段くらい登ったら少し平坦になって
 また5段って感じの繰り返しですよ。
 多分、この先は400段くらいかなぁ?」
と言うので、5分ほど休憩して
ようやくしゃべれるようになったもれは
「行ってみようか~」と答えました。

 

まず結論を書きます。

 

ここまでは785段でしたが
地上から奥社までの合計段数は1,368段です。

 

もれは知りませんでしたが実は奥社までの行程の

半分強しか登ってないのです^^;

 

スヌーピー氏も奥社まではほとんど行かないので
記憶が曖昧だった様です。

 

そして5段登って平坦は
10段登って平坦と読み替えてくださいw

 

とはいえ、平坦な部分があるし
地面は平らな石が敷き詰められているので歩き易くて
通常の登山に比べれば楽でした。

 

キツさから考えると

600段近くあるようには思えませんでしたね。

 

結論は後から判るものですから

この時点では知らなかったのですけどね。

 

経路も帰宅後に調べたらこんな感じです。

 

図の左端が奥社で

中ほどの青丸が本宮です。

 

矢印で記した経路が登ってきた経路で

本宮にいるもれ達は

およそ中間地点に居ることになりますね。

 

 

さて・・・10分ほど休憩して息を整えたので
奥社への参道を歩き始めました。

 

<つづく>