<つづき>

 

さて、捨身ヶ嶽禅定の門の前まで

たどり着くことができましたが

もうクラクラ、ゼーゼーで

しゃがみこんでスマホで写真を撮りました。

 

 

この門の横にベンチがあったので

そこで休憩です。

 

というのも、上の写真の門の向こうに

まだ坂が続いているのが見えたからです^^;

 

息を少し整えて坂を登って

禅定にたどり着きました。

 

禅定には鐘楼があって

鐘を撞くことができます。

 

鐘を撞こうと棒の下へ入ったところで

棒の金具が後頭部に当たって

うずくまりました@@;

 

『なんでこんなところに金具が・・・;』

 

とはいえ、撞く前に

ぶつけてて良かったかもしれません。

 

撞く時にぶつけてたら出血

下手すりゃ頭蓋骨を

骨折していたかもしれませんからね。

 

小振りな鐘ですが良い音で鳴りました。

 

でもフラフラなので

再びベンチで座って休憩です。

 

すると壁に参拝記録が貼ってありました。

 

一位は3万回@@;

二位が1万3千回@@;

 

この急勾配を一回登って

心の折れたもれからすれば桁外れです。

 

スヌーピー氏「一日に何回も登らないと

 万は行かないよね。」

 

確かにそうです。

 

一日一回で毎日登ったとして

一年365回です。

その100倍弱ですから

3万回は100年かかるのです。

 

一日に5回登っても1年で1,800回ですから

20年近くかかるのです。

 

本当なのだろうか?

 

<つづく>

<つづき>

 

出釈迦寺から少し登った場所にある

奥の院参拝者用の無料駐車場(空き地)に

車を停めたら、いざ出発です。


駐車場から参道へ入った瞬間に

心が折れるほどの斜度なので

参拝というより登山です。

 

あくまでももれの体感ですが

スタート直後から

30度~35度くらいの急勾配です。

 

車用にセメントで舗装されてはいますが

物凄い登り坂なので普通に立っているだけで

アキレス腱が伸びます。

 

前もって購入しておいたドリンクで

水分補給しながら

よいしょよいしょ・・・という感じに登りました。

 

10分ほどで別の駐車場がありましたが

ここまで車で登るのも大変そうな坂道でした。

 

ここで一休みして息を整えますが

全然回復しませんでした。

 

毎週、金比羅宮へ登っていますが

階段と坂道では使う筋肉が別みたいで

既に足もパンパンです。

 

ある程度息が整ったら再出発ですが

5分ほどでクラクラし始めました。

 

ちょっと景色が見える場所でまた休憩です^^;

 

友人スヌーピー氏はまだまだ余裕みたいです。

 

これを繰り返して30分ほどで

ようやく禅定の真下に到着しました。

 

見上げると絶壁の上に禅定の建物が見えます。

 

もれ「み・・・見たくなかった・・・。」

 

高低差は30m~40mほどあるでしょうか?

 

真っ直ぐに登るわけではないですが

30度の勾配であそこまで歩くのかと思うと

心が折れて、再びしゃがんで休憩しました。

 

ですが、禅定直前は勾配が緩くなり

10分ほどで禅定に到着しました。

全行程で5,6回へたりこんで休憩させてもらいましたが

友人スヌーピー氏は全然平気みたいです。

 

参道の最大斜度は40度強あったと思います。

平均斜度としては25度以上30度未満

と言った感じでしょうか?


<つづく>

<つづき>

 

さて、捨身ヶ嶽と言っても

何のことやら?だと思いますので

簡単に説明します。

 

香川県の善通寺市西部にある

我拝師山(がはいしさん)の北麓には

四国八十八ヶ所の第七十三番札所

出釈迦寺(しゅっしゃかじ)があります。

 

この出釈迦寺の奥の院が

我拝師山の上方にある

捨身ヶ嶽 禅定(ぜんじょう)なのです。

 

場所で言うと下図の場所に我拝師山があり

 

山頂からやや下方に禅定があります。

 

以前、このブログで国道11号線から撮影した

捨身ヶ嶽禅定の写真をUPしたことがあります。

 

その時の写真が見つからないので

Googleストリートビューから抜粋です。

 

この縮尺ではわかりづらいですが

矢印の場所に奥の院があります。

 

以前は車で登ろうとしましたが

車止めがあったので

体力の無いもれは則断念しました^^;

 

捨身ヶ嶽禅定のHPによると出釈迦寺から禅定までは

1.8kmの参道があり、許可をもらえば

車で登ることもできるようですが

禅定近くの駐車場は有料みたいですし

軽自動車だとヒィヒィ言いそうな急勾配です。

 

興味のあるかたはこちらからどうぞ

 

<つづく>

 

歴史好き中休みです。

 

もれは来年の初詣のトレーニングで

金比羅宮へ毎週登っていることは

以前の記事で書きました。

 

この日も金比羅宮へ登るつもりで

友人スヌーピー氏宅を訪問しました。

 

するとスヌーピー氏から

「今日はいよいよですね!」

という言葉が出ました。

 

『いよいよ?なんだっけ?』

 

捨身ヶ嶽(すてみがたけ)ですよ!」

 

もれたちは字をそのまま読んで

「すてみがたけ」と言っていましたが

正式には「しゃしんがだけ」だそうです。

 

そういえば前回の金比羅宮への道中で

捨身ヶ嶽に徒歩で登ったらキツいかな?

的な話をしていましたが

体力の無いもれは疲労のピークで

ボ~ッと受け答えしたような

ぼんやりした記憶がありました。

 

もれ「捨身ヶ嶽・・・登るんだっけ!?」

 

これまで一ヵ月半の間、週一回、

もしくは二回のペースで金比羅宮へ

登っていたので多少の体力は付いたかも?

という浅はかな考えがよぎりました。

 

もれ「行ってみようか!」

 

こうして捨身ヶ嶽へ登ることになりました。

 

<つづく>

<つづき>

 

藤原氏(ふじわら)

 

本貫:大和国高市郡藤原
現在:奈良県橿原市
本姓:中臣氏
通字:通、実など多数
著名な人物:
 中臣鎌足(藤原鎌足)、藤原不比等、藤原魚名、
 藤原道長、藤原頼、 藤原忠
 近衛基、九条兼など

 

中臣鎌足が大化の改新で藤原朝臣姓を与えられて
藤原鎌足と名乗ったのが始まりです。
子・藤原不比等は文武天皇に娘を嫁がせて絶大な権力を得て
不比等の四人の男子が武智麻呂(藤原南家)、
房前(藤原北家)、宇合(藤原式家)、麻呂(藤原京家)の
藤原四家に分家しました。
しかし四人が相次いで病死するとライバルの橘諸兄や
吉備真備らとの権力闘争に敗れ、中央から遠ざけられました。
藤原(南家)仲麻呂は橘氏を排除しましたが道鏡により失脚し
藤原氏は藤原北家、藤原式家の尽力で再興しましたが
平安時代前期には藤原北家以外は衰退しました。
藤原(北家)良房は人臣として初めて摂政となり、子・基経も
摂政と関白を務めて他氏を排除すると、道長、頼通父子の代に

全盛期を迎えて藤原摂関家が成立しましたが
血縁の無い白河上皇の院政、武家の台頭で衰退しました。
没落していた藤原南家から高階氏の養子となっていた
高階(藤原)通憲は信西入道と号して朝廷を牛耳りましたが
摂関家などの反発を受けて自害しました。
鎌倉時代には藤原北家も近衛家、鷹司家、九条家、二条家、
一条家の五摂家に分かれて交代で摂政、関白を務めました。
公家中では権威を持っていましたが、政務は武士に占有され
政治中枢から隔絶されたまま、明治維新を迎えました。
とはいえ、摂政・関白は江戸時代末期まで藤原北家が務め、
豊臣秀吉も藤原北家の藤原(近衛)秀吉として関白になっており
藤原北家以外で関白に就任したのは豊臣秀次のみでした。
また五摂家の庶家として、三条家、西園寺家、閑院家、
花山院家、御子左家、四条家、勧修寺家、日野家、
中御門家などがあります。
藤原氏流の武家としては、宇都宮氏、那須氏、藤原魚名流、
藤原秀郷流、藤原利仁流などがあります。

 


藤原氏(ふじわら):奥州藤原氏

 

本貫:大和国高市郡藤原
現在:奈良県橿原市
本姓:藤原氏(藤原秀郷流?)
通字:衡
著名な人物:藤原秀衡

 

従五位下の藤原正頼の子・頼遠が左遷されて陸奥国に移り
多賀国府の官人になりました。
当時の陸奥国は安倍氏が統治し、藤原頼遠の子・経清は
安倍氏から妻を娶って、安倍氏領の南部を統治しました。
前九年の役で清原氏が安倍氏を滅ぼすと藤原経清は
斬首されましたが、経清の妻と子・清衡は免罪されて
清原武貞の妻(再婚)、子・清衡は養子となりました。
のちに清原清衡と異父兄・真衡、異父弟・家衡が対立すると
源義家が介入して後三年の役が発生しました。
清原氏の所領は清原清衡が相続し、清衡は亡父・経清の
藤原姓に復して藤原清衡と名乗り、奥州藤原氏の祖となりました。
藤原清衡は奥州を支配しながらも朝廷から派遣される国司に
仕えるという形式を保って、朝廷の信頼を得ました。
奥州藤原氏は中央の政争に関せず、国力を高めて
奥州17万騎と呼ばれる強大な武力を有しました。
子・藤原基衡は陸奥守として下向した藤原基成と親交を結び
基成の娘を子・秀衡の妻に迎え入れました。
藤原秀衡は京都から落ち延びた源義経を保護し

義経が頼朝に敗れると、再び義経を保護して鎌倉幕府との

戦いも辞さない覚悟でしたが、秀衡の死後、

子・泰衡は義経を自害に追い込みました。
しかし源頼朝が追討軍を派遣すると藤原泰衡は家臣に殺害され

奥州藤原氏は滅亡しました。
藤原秀衡の四男・高衡は流罪になり、のちに赦されて
鎌倉幕府に仕えましたが、謀叛に関わったとして討伐されました。
藤原秀衡の弟・秀栄は十三湊へ移り住んで十三藤原氏
(十三氏)を名乗り、のちに安東氏に滅ぼされました。

 


不破氏(ふわ)

 

本貫:美濃国不破郡
現在:岐阜県不破郡
本姓:
 源氏(清和源氏為義流松井氏)
 百済系帰化人?
通字:直、光、道など
著名な人物:不破

 

出自は不明瞭で清和源氏流松井氏の松井直家が
後醍醐天皇を捕縛した功で、不破郡を与えられたのが
始まりとされています。
不破直家の子孫は代々美濃国守護・土岐氏、斎藤氏に仕え

斉藤氏滅亡後、不破光治は織田氏に仕え、足利義昭を
迎える使者に任じられるなど重用されました。
織田氏重臣・柴田勝家の与力として越前国に所領を
与えられ、織田信長が本能寺の変で自害すると

前田氏の家臣となり、加賀藩士として存続しました。

 


別所氏(べっしょ)

 

本貫:播磨国加西郡在田荘別所村
現在:兵庫県姫路市別所町別所
本姓:源氏(村上源氏赤松氏庶流)?
通字:光、祐、治、則など
著名な人物:別所就、別所安、別所長

 

別所氏は赤松氏の庶流で赤松頼清が別所村を領して
別所頼清と名乗ったのが始まりとされ、宗家である赤松氏が
村上源氏流を称したため、別所氏も村上源氏流とされています。
室町時代に宗家である赤松氏の赤松敦光や赤松則祐が
別所氏の名跡を継ぐなどしています。
赤松氏と浦上氏が対立すると別所就治は独自勢力を築き
戦国大名へと成長しました。
織田氏家臣・羽柴秀吉に攻められ、篭城戦(三木の干殺し)の末
別所長治が自害して別所氏は滅亡しました。
別所就治の三男・重宗は羽柴秀吉に仕え

但馬国に所領を得ると徳川政権下でも但馬国八木藩主を

務めましたが参勤を怠って改易されました。

 

<つづく>

<つづき>

 

平手氏(ひらて)

 

本貫:尾張国愛知郡平天城
現在:愛知県名古屋市から瀬戸市付近?
本姓:
 源氏(清和源氏新田氏庶流世良田氏庶流)?
 菅原氏(久松氏流)?
 在原氏(荒尾氏流)?
通字:秀
著名な人物:平手政、平手久、平手汎

 

清和源氏新田氏の庶流・世良田氏の分家とされていますが
仮冒の可能性が高いとされています。
異説として菅原氏流の久松氏、在原氏流の荒尾氏、
賀茂氏流などがありますが、いずれも判然としていません。
南北朝時代は南朝に味方したとされています。
戦国時代に尾張国の織田信長に仕えた平手政秀が有名で
信長を諌めるために自害しました。
子・平手久秀、孫・汎秀と織田氏に仕えましたが
汎秀は三方ヶ原の戦いで戦死し、久秀も伊勢一向一揆との
戦いで戦死しました。
平手氏嫡流は断絶し、平手政秀の甥・季胤(秀胤)は
織田信長の次男・信雄に仕えました。
平手氏からの分家として野口氏があります。

 


弘中氏(ひろなか)

 

本貫:不明
現在:不明
本姓:
 源氏(清和源氏)?
 藤原氏(藤原北家道長流内藤氏庶流)?
通字:不明
著名な人物:弘中隆兼(隆包)

 

出自は不明瞭で、清和源氏流という説と藤原道長流の
内藤氏の庶流という説があります。
壇ノ浦の戦いの後、周防国岩国を領していたとされ
室町時代に周防国守護・大内氏の重臣として仕えました。
戦国時代に弘中隆兼が知勇兼備の名将として功を挙げ
岩国に加えて安芸国東西条の分郡代官にも任じられました。
安芸国内の尼子氏勢力と戦い毛利氏と共闘しました。
一時期、安芸国東西条の代官職から外されましたが
大内義隆が安芸国守護になると、安芸国西条守護代に
任じられるなど、安芸国内の統治に貢献しました。
毛利元就とは親密な関係を築いていましたが、陶晴賢の
謀叛に同調し、九州北部の国人らの鎮圧に当たりました。
大内氏(陶氏)と毛利氏が敵対し、厳島の戦いが発生すると
弘中隆兼は厳島へ渡ることに反対しましたが聞き入れられず
嫡男・隆助と共に渡海し、陶晴賢が自害した後も
厳島山中に篭って孤軍奮闘の後に戦死しました。
弘中隆兼の次男・方明が出家して毛利氏に降伏すると
毛利元就は方明や弘中家臣を召し抱え、方明は元就の
偏諱を受けて、広中就慰(なりやす)と改名しました。

 


福島氏(ふくしま)

 

本貫:信濃国木曽福島?
現在:長野県木曽郡木曽町?
本姓:不明
通字:正
著名な人物:福島

 

出自は不明で本貫についても伝承の域を出ません。
桓武平氏流、清和源氏流、藤原氏流など諸説あり
いずれも不詳です。
箔付けのために北条(福島:くしま)綱成と同族だと称して
福島氏を名乗ったという説もあります。
福島正則の父・正信は尾張国海東郡の住民で
妻が羽柴秀吉の叔母だったとされ、その縁から正則は
長浜城主になった羽柴秀吉に仕えました。
賤ヶ岳の戦いでは七本槍の筆頭に数えられ、四国攻め、
九州征伐でも功を挙げて伊予国(松山市から四国中央市)を
与えられると、今治を本拠地にして有力大名に名を連ねました。
朝鮮出兵後に尾張国清洲へ転封となってからは石田三成ら
文治派と対立し、豊臣秀吉の没後に三成襲撃を企てました。
徳川家康に接近して関が原の戦いでは東軍に属し
安芸国広島藩主になりましたが、大坂の陣では豊臣恩顧の
大名ということで出陣を許されず江戸留守居役を任じられました。
親族である福島正守、正鎮は大坂方に味方し、弟・高晴は
大坂方に内通した嫌疑で改易されました。
福島正則も広島城の無断修繕を理由に信濃国高井野藩に
減転封され、正則の死後に幕府の使者を待たずに遺体を
火葬したとして福島氏は改易され、旗本として徳川氏に仕えました。

 


福留氏(ふくどめ)

 

本貫:尾張国海東郡
現在:愛知県津島市、あま市付近
本姓:橘氏?
通字:不明
著名な人物:福留親政、福留儀重

 

尾張国海東郡を領した橘儀光が福留氏の祖とされています。
源平合戦の屋島の戦いで福留儀光は平経盛配下として
参戦しましたが敗退し、讃岐国内に隠棲した後、土佐国へ
移り住んだとされています。
以降の記録は乏しく、戦国時代に長宗我部氏に仕えた
福留親政は長宗我部元親から親の字を与えられ、
本山氏や安芸氏との戦いで多大な戦功を挙げています。
長宗我部元親の嫡男・信親の守役にも任命されるなど
重用されましたが、伊予国で戦死しました。
子・福留儀重が家督を相続し、父同様に活躍しましたが
九州征伐の戸次川の戦いで戦死しました。
子・福留政親は関が原の戦いの後、浪人となりましたが
大坂の陣では長宗我部盛親に従い、戦後は加賀国に
移り住み、のちに尾張徳川氏に仕えました。

 


福原氏(ふくばら:安芸福原氏)

 

本貫:備後国内部荘福原
現在:広島県山県郡北広島町川西福原
本姓:
 大江氏(大江姓長井氏)
 大江氏(季光流毛利氏庶流)
通字:広、俊
著名な人物:福原世、福原広俊、福原貞

 

福原氏は「ふくばら」と読みます。
鎌倉幕府の重臣・大江広元の次男・長井時広の嫡男・泰秀が
出羽長井氏、次男・泰重が備後長井氏となりました。
宝治合戦で大江氏庶流の毛利季光が戦死すると、長井氏は
季光の遺児・経光を保護して、安芸国内の毛利氏の所領の
維持に努めました。
建武政権が長井氏の備後国守護を解任すると、政権を
離脱した足利尊氏に従って備後国を奪還しました。
しかし長井貞広が九州で戦死すると、貞広の養子になっていた
毛利元春の子・広世が所領の備後国福原を相続し、
福原広世と名乗りました。
足利将軍家は福原氏を毛利氏から独立した領主として認め
安芸長井氏の旧領相続も認めました。
この時点で備後長井氏の系統は、大江氏庶流・毛利氏の
系統に変わります。
毛利氏が弱体化した際も福原氏は毛利氏を支え、福原広俊は

娘を毛利弘元に嫁がせるなど親密な関係を築きました。
この娘が産んだ子が毛利興元と元就で、福原氏は重臣として
両川(吉川元春、小早川隆景)、口羽通良と並んで
毛利氏首脳となりました。
福原氏は幕末まで毛利氏に仕え、多くの志士を輩出しました。

 

<つづく>

<つづき>

 

久武氏(ひさたけ)

 

本貫:不明
現在:不明
本姓:不明
通字:親?(長宗我部氏からの偏諱)
著名な人物:久武信、久武

 

長宗我部氏の重臣・久武氏ですが出自は不明瞭です。
久武親信は実直な人物で長宗我部元親から重用され
高岡郡佐川城(現・高知県高岡郡佐川町)の城主となり
四万石という家中でも異例の高禄を与えられました。
南伊予方面の軍代として宇和郡の西園寺氏を攻めましたが
土居清良の計略で戦死しました。
久武親信の娘は長宗我部元親の養女となり、のちに
東条関兵衛に嫁ぎました。
久武氏は久武親信の弟・親直が相続しましたが親信は
生前から長宗我部元親に親直はお家の災いとなるため
家督を相続させないでほしいと懇願していました。
しかし長宗我部元親は久武氏を断絶させるわけにもいかず
久武親直の政治力も優れていたことから家督相続を許しました。
久武親直は兄の南伊予軍代を継いで、西園寺氏と戦いました。
豊臣氏の九州征伐で長宗我部元親の嫡男・信親が戦死すると
後継者問題が生じ、久武親直は元親の推す四男・盛親を
支持し、盛親の相続に反対する吉良親実や比江山親興を
元親に讒言して処刑させるなどしました。
関が原の戦いに敗れて帰国した長宗我部盛親に、盛親の
兄・津野親忠に謀叛の兆しありと讒言して親忠を

処刑させましたが、長宗我部氏は兄殺しを理由に改易されました。
久武親直は逃亡し、肥後国の加藤清正に仕えましたが
長宗我部氏滅亡の元凶として激しく非難されました。

 


一柳氏(ひとつやなぎ)

 

本貫:美濃国厚見郡西野村
現在:岐阜県岐阜市
本姓:越智氏(越智氏流河野氏庶流)?
通字:直、末、頼
著名な人物:一柳直末、一柳

 

河野通直(弾正少弼)の庶子・宣高が美濃国へ移り住み
土岐氏の家臣になったことから始まったとされていますが
この説については疑問が呈されており、不詳です。
一柳氏の家名の由来は、土岐氏が蹴鞠を開催した際に
庭にあったが鮮やかだったことから名付けられたとされています。
戦国時代に一柳直末、直盛兄弟は豊臣秀吉に仕えて
それぞれ美濃国軽海西城主、尾張国黒田城主となりましたが
兄・直末は小田原征伐で戦死しました。
一柳直盛は関が原の戦いで伊勢国神戸藩主になり
のちに伊予国西条藩主となり、孫・直興が職務怠慢を理由に
除封されました。
一柳直興の弟・直家は播磨国加東郡、伊予国宇摩郡、

周布郡を領した後、小野藩主となりましたが、養子の相続を
認められず減封されましたが幕末まで存続しました。
一柳直興の末弟・直頼は伊予国周布郡、新居郡を領して
小松藩主となり、幕末まで存続しました。

 


日野家(ひの)

 

本貫:山城国宇治郡日野
現在:京都府伏見区春日野小学校付近
本姓:藤原氏(藤原北家日野嫡流)
通字:光
著名な人物:日野俊、日野俊基

 

藤原北家の堂上家のひとつで法界寺を建立した儒学家の
家系で日野俊光は権大納言にまで昇りました。
浄土真宗の開祖・親鸞は日野家の出身です。
鎌倉時代末期に後醍醐天皇の倒幕計画に参加した
日野俊光の子・資朝や俊基(傍流)を輩出しました。
建武政権下で足利氏と深く結びつき、権力を強めましたが
6代将軍・足利義教に権力を削減されて没落しました。
反足利勢力と結んで復権を目指しましたが失敗しました。
日野家庶流が足利義輝の庇護を受けて家系は維持されました。
日野家の子孫に広橋家、柳原家、烏丸家、外山家、豊岡家、

竹屋家、日野西家、勘解由小路家(かでのこうじ)、裏松家、
三室戸家、北小路家、大谷家、日野氏、六角氏などがあります。

 


平賀氏(ひらが):信濃平賀氏

 

本貫:信濃国佐久郡平賀邑
現在:長野県佐久市平賀
本姓:源氏(清和源氏義光流)
通字:義
著名な人物:平賀盛、平賀惟、平賀朝雅

 

源新羅三郎義光の子・盛義が平賀邑を領したのが始まりです。
子・平賀義信は源氏御門葉として鎌倉御家人筆頭になり
孫・惟義は武蔵守を相続し、伊勢国、伊賀国、越前国、
美濃国、丹波国、摂津国の6ヶ国守護に任じられるなど厚い
信頼を受けていました。
平賀惟義の弟・朝雅は北条時政の娘を妻として北条氏とも
強い信頼関係を築いていましたが、将軍になろうとする陰謀が
発覚して処刑されました。
平賀惟義に罪は及びませんでしたが、北条氏が執権として
権力を持つと、北条氏に準じる席次に置かれるようになり
承久の乱で後鳥羽上皇に味方したため没落しました。
鎌倉時代末期に楠木正成討伐軍に従軍し、新田義貞の
配下に入ると新田氏に仕えるようになりました。
室町時代から戦国時代に平賀氏は信濃国守護・小笠原氏の

庶流・大井氏の勢力下に置かれ、のちに陸奥国白石へ
移り住んで白石氏を名乗り、伊達氏に仕えました。

 


平賀氏(ひらが):安芸平賀氏

 

本貫:出羽国平鹿郡
現在:秋田県横手市増田町付近
本姓:藤原氏(藤原北家良房流)
通字:惟、宗、相
著名な人物:平賀弘保、平賀広、平賀元

 

太政大臣・藤原良房の子孫・松葉資宗は源平合戦で
出羽国平鹿郡、安芸国高屋保などを与えられました。
子・松葉惟泰が平鹿郡へ下向して平賀(平鹿)氏を名乗り
鎌倉幕府との繋がりも強く、歴代当主は将軍・源実朝や
執権・北条泰時から偏諱を受けています。
鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏に従いましたが、平賀直宗と
庶兄・共兼が家督争いを起こしました。
平賀直宗が勝利して安芸国高屋保を本拠地にすると
出羽国平鹿郡は時間を経て他勢力に奪われて失いました。
平賀氏は安芸国の有力国人になり、大内氏と良好な関係を
築きましたが、大内氏と尼子氏が争うと尼子派と大内派に
分裂し、大内氏家臣・毛利氏によって尼子派が滅亡しました。
平賀隆宗の死後、大内義隆は弟・平賀新九郎の相続を許ず
義隆が寵愛していた小早川氏庶流の隆保が相続しました。
大寧寺の変で大内義隆が自害すると、毛利元就は
平賀隆保を滅ぼして新九郎に平賀氏を相続させ、毛利氏の
祖・大江広元の「広」の字を与えて平賀広相と名乗らせました。
平賀広相、子・元相は毛利氏に仕え、一時京都に
隠棲しましたが、のちに復帰して明治維新まで存続しました。

 

<つづく>

<つづき>

 

服部氏(はっとり)

 

本貫:伊賀国阿拝郡服部郷
現在:三重県伊賀市服部町
本姓:
 楠木氏(伊予橘氏)
 平氏(桓武平氏流)・・・仮冒とされる
 秦氏・・・信憑性に乏しい
通字:正
著名な人物:服部保長、服部

 

出自は不詳ですが、通説では楠木氏流とされています。
平安時代末期に平家方の服部家長が史料に残っていますが
家長の子孫は伊賀国で千賀地(ちがち)氏を名乗りました。
戦国時代に千賀地(半蔵)保長が服部氏に復して
初代服部半蔵として、足利義輝に仕えたとされています。
その後、松平清康に仕え、代々松平氏(徳川氏)家臣となり
当主が半蔵の名前を継承しました。
子・服部正成は伊賀忍者を率いた最も著名な服部半蔵で
正成の江戸屋敷付近の門は半蔵門と呼ばれるようになりました。
服部正成の嫡男・正就は部下を酷使して反発を受けて失脚し

次男・正重は大久保長安事件に関与して改易されました。
服部正就の弟・正重は久松松平氏当主・松平定勝を頼って
代々久松松平氏家臣として仕えました。

 


馬場氏(ばば)

 

本貫:甲斐国巨摩郡教来石
現在:山梨県北杜市白州町
本姓:源氏(清和源氏頼光流)
通字:信、政
著名な人物:馬場春(房)

 

清和源氏の摂津源氏・源仲政を祖とし、子・源三位頼政も
馬場氏を名乗ったとされていますが、頼政の子孫は

下間氏や太田氏に繋がる家系以外は不詳で

甲斐国の馬場氏についてもわかりませんでした。
清和源氏・土岐氏から分家した一族が甲斐国教来石
(きょうらいいし、きょうらいせき)に移り住んで教来石氏を名乗り
甲斐国守護・武田氏に仕えた教来石信明は、武田信重の
娘婿となって木曽氏庶流・馬場氏の名跡を相続して、
馬場信明を名乗りました。
この木曽氏庶流・馬場氏が同族にあたる馬場(源)仲政の
名跡を相続したものか否かも不明です。
馬場信明の四代後の虎貞は武田信虎に諫言して処刑され
馬場氏は断絶しました。
武田晴信に仕えていた教来石景政は馬場氏の名跡を与えられ
馬場信春と名乗り、武田氏重臣となりました。
子・馬場昌房は牧之島城代となり、織田氏の甲州征伐では
深志城を守り、降伏した後に戦死、または処刑されました。
馬場氏の子孫、一族は各地に逃れて没落しました。

 


林氏(はやし)

 

本貫:不明
現在:不明
本姓:越智氏(越智氏流稲葉氏庶流)
通字:通
著名な人物:林秀貞(林勝)

 

河野氏庶流の河野通広が美濃国へ移り住んだというのが
定説でしたが、最近の研究では越智氏流稲葉氏庶流説が
主流になってきています。
稲葉通村が林氏に改名して、子・通安が尾張国の織田信定、

信秀に仕えました。
林通安の子・秀貞は通勝として知られますが、近年の研究で
通勝の名は松永久秀家臣の林通勝との混同だとされています。
ただし、林秀貞の子が勝吉、孫が勝久であることから、秀貞の
初名が通勝で織田信秀の偏諱を受けて、秀貞と改めた
可能性も指摘されています。
林秀貞は織田信長の弟・信勝(信行)を擁立しようとしましたが
稲生の戦いで敗れて、以後、信長の宿老として仕えました。
林秀貞は外交、内政の中心人物として活躍しましたが
20年以上経過してから謀叛を咎められて追放されました。
子・林勝吉(一吉)は父と共に追放された後、山城国に居住し
本能寺の変後は山内一豊に仕えました。

 


原氏(はら):桓武平氏流

 

本貫:下総国香取郡千田庄原郷
現在:千葉県香取郡多古町原
本姓:平氏(桓武平氏良文流千葉氏庶流)
通字:胤
著名な人物:原虎、原房、原

 

平常長の四男が原郷を領して、原頼常と名乗りました。
原頼常には子が居らず、甥(兄の子)・常宗が相続しました。
原氏は本家にあたる千葉氏に仕え、千葉氏が後北条氏に
臣従すると、原胤義も後北条氏傘下に入り、小田原征伐で
改易されました。
小弓公方との戦いの後に甲斐国へ逃れた一族は甲斐原氏と
呼ばれ、甲斐国守護・武田氏に仕えました。
武田信虎、信玄期の原虎胤は武田二十四将、甲陽五名臣に

列しましたが虎胤の子・盛胤(昌胤)は諸角(両角)昌守と
私闘を起こしたことで改易され、のちに長篠の戦で戦死しました。
武田氏滅亡後、原盛胤の子は真田昌幸を頼ったという
記録があり、原虎胤の次男・重胤は徳川氏に仕えました。

 


原氏(はら):清和源氏流

 

本貫:美濃国恵那郡遠山荘原郷
現在:岐阜県恵那市山岡町原
本姓:源氏(清和源氏頼光流土岐氏庶流)
通字:秀
著名な人物:原昌俊、原昌胤

 

土岐氏庶流の蜂屋氏が、南北朝時代に原郷を領して
原彦次郎と名乗ったのが始まりとされています。
室町時代に入ると原秀成が関東管領・上杉氏に仕えて
関東へ下向し、常陸国江戸崎城に入りました。
下総国の原氏と区別するために、土岐原氏とも呼称され
常陸国の国人の中心的存在になりました。
佐竹氏の内紛や関東管領と古河公方の紛争に巻き込まれ
上杉氏が衰退した後は常陸国に独自勢力を維持しました。
戦国時代に本家の土岐氏から土岐治頼を養子に迎え
斎藤道三によって追放された治頼の兄・頼芸も保護すると
土岐氏再興のため、土岐氏に復しました。
後北条氏に敗れて降伏し、小田原征伐時に佐竹氏によって
滅亡し、子孫は徳川幕府に旗本として仕えました。
また甲斐国へ移り住んだ一族には甲斐武田氏に仕え
陣馬奉行として活躍した原昌俊や子・昌胤がいます。

 


比企氏(ひき)

 

本貫:武蔵国比企郡
現在:埼玉県比企郡、東松山市付近
本姓:藤原氏(藤原北家秀郷流)?
通字:員
著名な人物:比企能

 

比企氏については史料が乏しく出自も系譜も不詳です。
比企尼が源頼朝の乳母を務めた縁で頼朝に仕え
比企能員は鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の乳母父となり
将軍の外戚として権力を強めました。
しかし北条氏が有力御家人を弱体化させようと画策し
梶原氏、続いて比企氏が標的にされ、比企能員の変と
呼ばれる騒動で比企氏は滅亡しました。
比企能員の兄弟とされる朝宗は殺害された記録はありませんが
その後、御家人として活躍することは無かったようです。

 

<つづく>
 

<つづき>

 

畠山氏(はたけやま):河内畠山氏

 

本貫:武蔵国男衾郡畠山郷
現在:埼玉県深谷市畠山
本姓:
 平氏(桓武平氏秩父氏流)
 源氏(清和源氏足利氏流)
通字:重、国、政、義
著名な人物:畠山忠、畠山清、畠山長、畠山

 

坂東八平氏の秩父氏の庶流が畠山郷を領して

畠山重能を名乗ったのが始まりとされています。
当初は平家に味方しましたが、のちに源頼朝に従い、
畠山重忠は北条時政の娘を娶って

有力御家人となりましたが、時政と対立して戦死しました。

(畠山重忠の乱)
足利義兼の庶長子・義純が畠山重忠の未亡人で

北条時政の娘を娶って畠山氏の名跡と所領を相続し

畠山氏は桓武平氏流から清和源氏流足利氏庶流になりました。
畠山氏は足利家中で斯波氏に次ぐ家格とされました。
南北朝時代に足利尊氏から紀伊国、河内国、越中国の
守護職に任じられましたが、畠山氏嫡流は観応の擾乱で滅び

奥州管領・畠山高国(のち二本松氏)が嫡流となりました。
奥州畠山氏(二本松氏)が弱体化すると河内畠山国清が
畠山氏惣領となりました。
畠山国清は関東管領として関東の南朝方と戦いましたが
鎌倉公方と対立して追放され、没落しました。
畠山国清の弟・義深が畠山氏を再興させると、子・満家は
能登国守護、管領に任じられ、三管領家のひとつになりました。
室町時代末期に畠山義就と畠山政長が家督争いを起こし
応仁の乱の要因のひとつになりました。
両畠山氏は争いを続け、細川氏に敗れて没落しました。

 


畠山氏(はたけやま):能登畠山氏

 

本貫:武蔵国男衾郡畠山郷
現在:埼玉県深谷市畠山
本姓:
 平氏(桓武平氏秩父氏流)
 源氏(清和源氏足利氏流)
通字:重、国、政、義
著名な人物:畠山総、畠山

 

室町時代に畠山基国が能登国守護職に任じられました。
子・畠山満慶は兄・満家が足利義満の怒りを買って
蟄居を命じられていたため、畠山氏惣領となっていましたが
満家が赦されると、兄に惣領の座を譲りました。
畠山満家は弟・満慶に感謝して能登国守護職を譲り
満慶は能登畠山氏(匠作家)を興しました。
能登畠山氏三代目・畠山義統は能登国へ移り住み、
強力な領国体制を築きましたが、子と弟が対立しました。
両者の和睦後、国主となった畠山義総は名君として知られ
能登国は繁栄しましたが子・義続の代に能登国は乱れ
畠山七人衆の遊佐氏と温井氏が台頭しました。
この混乱で上杉氏の介入を招き、能登畠山氏は滅亡しました。
最後の当主・畠山義綱の弟・義春は上杉景勝に仕え
景勝の姉を娶って上条上杉氏の名跡を相続し
上杉氏一門衆となって米沢藩士となりました。

 


波多野氏(はたの)

 

本貫:相模国波多野荘
現在:神奈川県秦野市
本姓:
 佐伯氏?
 藤原氏(藤原北家秀郷流)
通字:義、通
著名な人物:波多野義通、波多野

 

源頼義に仕えた佐伯経範が祖とされており、平安時代末期に
摂関家の波多野荘へ移り住んで波多野氏を名乗りました。
一般に低い位しか得られなかった坂東武士としては
異例の高い地位を持った豪族でした。
佐伯経範の妻が藤原秀郷流であったことから、のちに
藤原姓を名乗ったとされていますが、出自は不明瞭です。
五代目の波多野義通は源義朝に仕え、妹が義朝の側室として
義朝の次男・朝長を生みました。
波多野義通は保元・平治の乱でも源義朝に従って
参戦しましたが、義朝の嫡男が三男・頼朝に定められたことで
不和となり、波多野荘へ戻ったとされています。
子・波多野義常は官位を得て相模国の有力国人になりましたが

源頼朝の挙兵に反抗して敗退し、自害しました。
波多野義通の次男・義景と義常の子・有常は赦されて
鎌倉御家人となり、のちに有常は松田郷を与えられて
松田氏の家祖となりました。

 


波多野氏(はたの):丹波波多野氏

 

本貫:相模国波多野荘
現在:神奈川県秦野市?
本姓:
 佐伯氏?
 藤原氏(藤原北家秀郷流)?
通字:秀、通
著名な人物:波多野稙、波多野

 

出自は不明瞭で鎌倉御家人となった波多野氏の末裔説、
因幡国の豪族・田公氏、桓武平氏流三浦氏、
丹波の豪族・日下部氏の庶流など諸説あります。
応仁の乱で波多野秀長が丹波国多紀郡を与えられたのが
丹波波多野氏の始まりとされています。
覇権を握った細川政元に仕えて、丹波国内で勢力を拡大し
子・波多野稙通は丹波国守護代・内藤氏を討つと
丹波国内から細川氏の勢力を駆逐して戦国大名として
独立を果たしました。
しかし波多野稙通の子・晴通は暗愚で、三好氏の侵攻で
衰退し、三好氏家臣・松永久秀に攻められて服属しました。
三好氏が弱体化すると、波多野秀治は八上城を奪還し
再び独立を果たしました。
織田氏が上洛すると、波多野秀治は赤井直正と共に
織田氏に従属しましたが、足利義昭が信長包囲網を築くと
織田氏を離反し信長包囲網の一角を担いました。
波多野秀治は織田氏の攻撃を再三撃退しましたが
降伏して出頭すると、だまし討ちに遭って処刑されました。
弟・波多野秀尚も一緒に処刑されたため
大名としての波多野氏は滅亡しました。

 


蜂須賀氏(はちすか)

 

本貫:尾張国海東郡蜂須賀郷
現在:愛知県あま市蜂須賀
本姓:
 藤原氏?
 源氏(清和源氏足利泰氏流)?
 源氏(清和源氏斯波氏流)?
通字:正
著名な人物:蜂須賀(小六)勝、蜂須賀家政

 

出自は不明で諸説あり、系図も蜂須賀正勝の父・正利以前は
不確定とされ、藤原姓から源姓(清和源氏足利泰氏流、
または斯波氏庶流)に改めたとされています。
従来説は野盗集団でしたが、近年の研究で尾張国守護・
斯波氏に仕えて蜂須賀郷を治めた国人とされています。
斯波氏が衰退すると、蜂須賀正利は美濃国斎藤氏に臣従し
子・正勝は斎藤道三の死後、尾張国岩倉城主・織田信賢、
犬山城主・織田信清に仕えた後、織田信長に臣従しました。
蜂須賀正勝は織田氏家臣・羽柴秀吉の与力として活動し
子・家政は阿波国主となりましたが、朝鮮出兵で戦線の
縮小案を上申したことで、蟄居を命じられました。
関が原の戦いでは西軍に与しましたが徳川家康と親しかったため
高野山へ追放されました。
嫡子・蜂須賀至鎮は東軍に与して徳島藩主となり
明治維新まで存続しました。

 


八戸氏(はちのへ):根城南部氏、遠野南部氏

 

本貫:陸奥国八戸根城
現在:青森県八戸市根城
本姓:源氏(南部氏庶流)
通字:義、信、など特定不能
著名な人物:八戸政栄

 

南部氏初代当主・南部光行の三男・実長が分家して
甲斐国波木井郡(現・山梨県南巨摩郡身延町梅平)を領して
波木井南部氏を名乗り、嫡男・実継が陸奥国へ移りました。
南部実継は甥で南部宗家当主・南部政行の子・師行を
養子に迎えて家督を相続させ、師行は陸奥国へ下向した
北畠顕家に従い、八戸へ移り住み、七戸氏が分家しました。
当主・八戸信光が甲斐国波木井へ移り住むと八戸根城は
一時的に三戸南部氏が統治し、のちに七戸氏が相続しました。
この一連の動向から、南部氏惣領は三戸南部氏ではなく
八戸南部氏であった可能性も指摘されています。
南北合一後、甲斐国の八戸氏は八戸根城へ戻り
三戸南部氏の配下に入りました。
江戸開府後は南部藩士となりましたが、八戸直政が急死すると
八戸氏は一時的に直政の未亡人・清心尼が継ぎ、一族から
養子・直義を迎えて断絶を回避しました。
しかしこの相続により、領地替えを命じられて遠野へ
移封となり、以後、遠野南部氏として南部藩御三家の
ひとつとして明治維新まで存続しました。

 

<つづく>

<つづき>

 

二本松氏(にほんまつ):奥州畠山氏

 

本貫:武蔵国男衾郡畠山郷
現在:埼玉県深谷市畠山
本姓:源氏(河内源氏足利氏庶流畠山氏)
通字:義
著名な人物:二本松国、二本松

 

南北朝時代に畠山氏の嫡流である畠山高国は奥州管領に
任じられましたが、子・国詮は観応の擾乱で足利直義が

独自に派遣した奥州管領・吉良氏の攻撃を受けて

陸奥国二本松城(現・福島県二本松市)へ逃げ延びました。
さらに石塔氏、斯波氏も奥州管領を名乗ったため、四者が
奥州で対立し、敗退した畠山氏は弱体化しました。
畠山氏の嫡流という家格から、奥州では厚遇を受けましたが
中央では河内畠山氏が実質上の嫡流とされ、奥州畠山氏は
二本松氏として地方の一国人という扱いになりました。
戦国時代に入ると伊達氏、芦名氏といった列強の圧力で
益々弱体化し、伊達政宗の降伏勧告を受けましたが
二本松義継は条件を呑まずに伊達輝宗を拉致したため
伊達政宗に殺害され、二本松城は無血開城されました。
二本松義継の子・義綱は芦名義広を頼って逃亡し、義広の
実家である佐竹氏の保護下に入りましたが、のちに殺害されて
二本松氏は滅亡しました。

 


丹羽氏(にわ):児玉丹羽氏

 

本貫:尾張国丹羽郡
現在:愛知県犬山市、岩倉市付近
本姓:
 良岑氏(よしみね)
 藤原氏(児玉氏流)
通字:長
著名な人物:丹羽秀、丹羽

 

桓武天皇の皇子・良岑安世の末裔と考えられていますが
箔をつけるために、尾張国春日井郡児玉村の地名から

児玉氏の本姓である藤原姓を称しました。
丹羽長秀以前の系譜は不詳ですが

代々尾張国守護・斯波氏に仕えたとされています。
丹羽長秀は織田信長に仕えて重臣となりましたが
本能寺の変の後は羽柴秀吉と共に明智光秀を討って
羽柴氏家臣となり、越前国、若狭国、加賀国を与えられました。
丹羽長秀の嫡男・長重は佐々氏征伐に従軍しましたが
家臣が佐々氏に内応したという嫌疑をかけられて減封され
若狭国のみを領する小大名に没落し、九州征伐でも家臣の
狼藉で、若狭国も没収されて加賀国松任のみを治めました。
小田原征伐で加賀国小松を与えられましたが
関が原の戦いで改易されました。
のちに常陸国古渡を与えられて大名に復帰し、大坂の陣で
常陸国江戸崎、陸奥国棚倉を経て、陸奥国白河を治めました。
丹羽長重の嫡男・光重は陸奥国二本松藩主となり
明治維新まで存続しました。

 


丹羽氏(にわ):一色丹羽氏

 

本貫:尾張国丹羽庄
現在:愛知県稲沢市東部?
本姓:源氏(清和源氏一色氏流)
通字:氏
著名な人物:丹羽

 

室町幕府の九州探題・一色直氏の末裔とされています。
一色直氏の系統は没落して諸国に分家し、曾孫・氏明が

尾張国丹羽庄を領して丹羽氏を名乗りました。
児玉丹羽氏とは血縁関係は無いとされています。
戦国時代に丹羽氏勝は守山城主・織田信次(信秀の弟)に
仕え、のちに信長に仕えましたが、林秀貞(通勝)らと共に
追放されました。
丹羽氏勝の長男・氏次は織田信雄に仕えた後、徳川家康に
仕えて、関が原の戦いで三河国伊保藩主となりました。
その後、美濃国岩村藩主となりましたが、お家騒動で
越後国高柳藩、のちに播磨国三草藩へと転封され
明治維新まで存続しました。

 


温井氏(ぬくい)

 

本貫:能登国鹿島郡温井村
現在:石川県七尾市付近
本姓:
 藤原氏?
 源氏(清和源氏桃井流)?
通字:宗、貞
著名な人物:温井総(紹春)、温井景隆

 

藤原氏流とされていますが、足利氏庶流の桃井氏末裔を
称したともされています。
桃井氏は過去に越中国や能登国などを治めており

足利氏に連なる氏族として室町幕府や能登国守護・畠山氏に

近づくことを狙ったようです。
鎌倉時代から大屋荘を治める長(ちょう)氏は

室町幕府に仕えて在京することが多く

温井氏が実効支配して畠山氏重臣の七人衆に列しました。
温井総貞は加賀一向一揆を鎮圧して畠山氏家中での
政治的権力を握って台頭すると筆頭家臣・遊佐氏を追放して
畠山氏を傀儡にしました。
反感を募らせた畠山義綱に温井総貞、続宗を殺害され
続宗の子・景隆と次男・三宅総広は逃亡し、甲斐武田氏や
加賀一向一揆の支援で能登国復帰を目指して遊佐氏や
長尾景虎、長連龍と争奪戦を繰り返しました。
本能寺の変で織田信長が死去すると、温井氏らは加賀国、
能登国を治める前田氏を攻撃しましたが敗退して滅亡しました。

 


禰寝氏(ねじめ)

 

本貫:大隅国禰寝院
現在:鹿児島県肝属郡錦江町
本姓:
 建部氏
 平氏(桓武平氏重盛流)?
通字:清、重
著名な人物:禰寝清重、禰寝長、禰寝

 

奈良時代には建部氏を名乗る大宰府の官人で、のちに
郡司などとして各地に配されました。
藤原氏が全盛期を迎えると、禰寝氏は藤原姓を名乗り
大隅国の荘園・禰寝院を領して禰寝氏を名乗りました。
戦国時代まで大隅国守護・島津氏に仕えていましたが朝廷と
独自に交流を持つなど、独立性も維持していました。
肝付氏、種子島氏と争いましたが、琉球貿易で富を得ると
島津氏から離反して肝付氏と結びました。
家中の分裂を収めて強大になった島津義久から寝返りの
勧誘を受けると島津氏傘下に戻り、肝付氏と争いました。
島津氏が豊臣秀吉に降伏すると禰寝氏も家臣として仕置に
従い、父祖伝来の禰寝院から吉利郡(現・鹿児島県日置市
日吉町吉利)へ転封となりました。
江戸時代に入って禰寝氏の嫡流は断絶し、島津家久の子を
養子に迎えて島津氏の分家となり、平氏(平重盛流)の
末裔を名乗って、平重盛の住んだ京都の小松にならって
小松氏を名乗るようになりました。
幕末の小松帯刀清廉は島津氏流禰寝氏の子孫です。

 


芳賀氏(はが)

 

本貫:下野国芳賀郡大内荘
現在:栃木県芳賀町付近
本姓:
 清原氏説
 紀氏説
通字:高
著名な人物:芳賀

 

清原高重が花山天皇の怒りを蒙って下野国芳賀郡へ流され
勢力を築いて芳賀氏を名乗りました。
奥州合戦から宇都宮氏に従属して益子氏(本姓:紀氏)と
並んで紀清両党と呼ばれました。
のちに宇都宮氏から養子を迎えて、宇都宮氏の一族になると
権力を握って宇都宮氏を傀儡にするなどしましたが粛清され
那須氏へ亡命し、芳賀氏は益子氏が相続しました。
亡命した芳賀高照は宇都宮氏への復帰を許されず没落しました。

 

<つづく>