<つづき>

 

別子中学校を通過して旧別子山村の

中心(?)を抜けたので

旧別子山村について少しだけ書いておきます。

 

別子銅山行で書いた内容は大半が

銅山に絡む内容でしたので^^;

 

旧別子山村の起源は平家落人伝説で

三人の落人とされていますが

伝承の域を出ません。

 

徳島県三好市付近もそうですが

源平合戦のあった瀬戸内海から

高い山脈を隔てた場所ということで

落ち武者伝説が残っているのですね。

 

現在は数百人しか住んでいませんが

明治期に別子銅山が開山すると

1万2千人が生活しており

これは当時、松山市に次ぐ

愛媛県第二位の人口だったそうです。

 

ですが、銅山の閉山で過疎化しました。

 

先に書いた集落の東西の幹線道路は

四国中央市側の方が整備されていますが

地形の影響も大きく関与しているそうです。

 

西は1,000m級の峠という

難所があるからでしょうか?

 

東も開けているわけではありませんが

高山と渓谷沿いで平地の少ない西部より

やや平地の多い東部の方が道路整備もし易く

四国中央市富郷町の方が人口が多かったため

東の方が先に整備されたのかもしれませんね。

 

合併の際に当初は幹線道路の整備された

四国中央市との合併を計画していましたが

住民が相談した結果

銅山産業で昔から関係の深かった

新居浜市と合併したそうです。

 

そのため、西(新居浜市側)の道路は

現在もいたるところで拡幅工事や

路肩の補修工事が行なわれています。

 

 

さて、もれ車は東に走り続けています。

 

しばらく走るとカーナビに
広い水の絵が見え始めました。

 

『ダム湖か・・・。』


またちょっとドキドキです。

 

トンネルを抜けると
鉄橋と水面が見え始めました。

 

水面はまだ少しだけなので
平常心を保てました。

 

ここで

ある標識が見えました。

右折する(鉄橋を渡る)と
折宇 戸女
という標識でした。

 

『何て読むんだろう?』
と少しスピードを緩めました。

 

折宇は「oriu:おりゅう」で
戸女は「tonyo:とにょう」と読むようです。

 

地名や人名は難しいですね。

 

機会があれば戸女という地名の由来も
調べてみたいと興味が湧きました。

 

<つづく>