<つづき>
1516年5月7日
前日の八尾の戦いで
軍勢の大半を失った長宗我部勢は
野戦に出ることができず
大坂城の北側にあたる
京橋口を守ることになりました。
しかしながら徳川方は京橋口からは攻め寄せず
大坂城南に布陣したため
長宗我部盛親が戦うことはありませんでした。
主戦場が天王寺と岡山付近であったため
天王寺・岡山の戦いと呼称されています。
大坂方は夜明け前に城を出て南下し
真田幸村は冬の陣で徳川家康の本陣があった
茶臼山に陣を敷きました。
義弟・大谷吉治、嫡男・真田大助も
陣を同じくしています。
茶臼山周辺に福島正守、福島正鎮、
浅井井頼(長房)、細川興秋などが布陣しました。
ちなみに・・・浅井井頼は浅井長政の
三男とも次男とも養子(近親の子)とも
言われる人物で
関が原の戦いにも生駒勢の一員として
参戦していたそうです。
実は冬の陣から大坂城に入って
守備勢に加わっていました。
浅井長政の子というと
織田信長の妹・お市の生んだ
三姉妹が有名ですが
二人の男児もいたようです。
男児の母については諸説あり
お市ではない別の女性が産んだ説や
三姉妹のいずれかと双子だった説など
かなり曖昧です。
そういうわけで浅井井頼の出自も不明瞭です。
今回、名前が初出なので軽く触れました。
上図で福島正守と陣を供にしている
渡辺糺(ただす)については
茶臼山の西に布陣したという説もあります。
毛利勝永は四天王寺付近に布陣し
その配下に前日討死した後藤又兵衛隊や
木村重成隊の兵士が組み込まれました。
真田丸跡地付近に
大野治房などが布陣し南東の岡山方面から
攻め寄せる敵勢にあたりました。
その後方には大野治長が布陣しました。
大野治長は毛利隊、大野治房隊の
後詰の役割を担っています。
毛利隊の布陣した四天王寺付近は
丘陵になっていて
大軍の展開には不向きな地形でした。
つまり大坂方の狙いは徳川勢を
丘陵地帯に呼び込んで
数的不利を地の利で覆すというものでした。
前日の八尾・若江の戦いで湿地という
地の利を活かそうとしたのと同様です。
また大坂城の西、現・心斎橋付近に
明石全登が布陣しています。
明石隊の役割は戦略上
とても重要な位置づけを持っていました。
徳川方には明石隊が
大坂城の西側を守る部隊だと
見えたことでしょう。
ですが明石隊は
防衛部隊ではありませんでした。
戦闘が始まって徳川勢が
真田隊、毛利隊に殺到している間に
戦場を大きく迂回して
徳川家康の本陣を突く強襲部隊でした。
明石隊から徳川方の目を逸らすために
茶臼山、天王寺付近に
大坂方の主力を配置したということです。
図の名前の無い部隊は
複数の武将が陣を供にしていたり
前日に戦死した木村重成の家臣などで
構成された軍勢です。
また名前があっても大半が混成部隊であり
代表的な武将の名前だけを記載しています。
※明日の記事に記述する徳川方も同様です。
<つづく>
