<つづき>


石川虎竹丸の家系である石川氏
高峠城について触れておきます。


ちょっとややこしくて長くなりますm(_ _)m

しかも人名、親子の関係などもかなり曖昧で
史料によって比定される人物が違っていたり
実在が疑われたり
時代背景が若干おかしかったりします。


いくつかの史料を読み合わせて
もれなりに構築したものですので
真偽はわかりませんし責任も持てませんw


高峠(たかとうげ)城は高峠山頂(約230m)に
河野氏によって築かれた山城でした。

現在の西条市黒瀬付近です。


四国最高峰石鎚山から流れ出る

豊富な水のおいしい地域です。

築城は南北朝時代の
1380年前後とされています。


築城当時、伊予守護・河野氏は南朝方であり
讃岐守護・細川氏は北朝方でした。


全国の他の地域でも同様ですが
南朝、北朝は激しく戦いを繰り広げていました。


河野氏と細川氏も例に違わず

激しい抗争を繰り広げていましたが
徐々に細川氏が有利になっていきました。



伊予国の東部(東予地方)へ侵攻した細川氏は

現在の新居浜市辺りまでを制圧していました。


高峠城は対細川勢の
防衛拠点として築かれたのです。



河野勢は高峠城を足場に
一度は細川氏を撃退しましたが
再侵攻を受けて陥落しました。


新居郡は細川氏によって
制圧されたのです。



高峠城の陥落後に
室町幕府将軍・足利義満の仲介で
細川氏と河野氏は和睦しました。


どちらかが将軍に
仲介を求めたのだと思われます。
この場合は河野氏かな?

もしくは南北朝が統一された結果なのかな?



その結果、河野通之細川頼之猶子となって
高峠城に入ることになりました。


河野通之は河野氏当主・河野通義の弟でした。


つまり

新居郡以東は細川氏の所領

であるが
領主は河野氏の分家

という複雑な状態が生じたのです。



この複雑な状況が東予地方の
その後に大きく影響し
同じ伊予国でも中予(松山方面)とは異なる
特殊な勢力圏となるのです。



細川氏の猶子・河野通之は
河野氏当主の弟ですから
いつ河野氏へ寝返るかわかりません。


そのために細川氏は目付け役の
家老として石川氏を派遣したのです。


ある史料で在地石川氏
記述していたのでそれに倣うことにします^^;


また便宜上、河野通之を東予河野氏
湯築城の河野氏を河野本家と呼称します。
※これは一般的な呼称ではなく
 このブログの中での仮称です。 
 一般的には予州河野家というらしいですが
 本家も予州(伊予国)にあるのでややこしいので

 あえて独自の呼称を用います。


<つづく>