<つづき>


四国遠征の話に戻ります。



讃岐方面軍は

屋島南麓の喜岡城を落とすと

続けて西に10kmほどの場所にある

香西佳清の守る藤尾城を攻めました。


まずは東の屋島から西の五色台までの

海岸線を抑えて補給線と

万一の場合の退路を確保しようとしたのですね。

※五色台というのは藤尾城の西にある山地の総称で

 海際まで山が続いています。

 上図では藤尾城の文字の上のギザギザした出っ張りから

 香西佳清の文字の少し下までが五色台になります。


また長宗我部勢が讃岐国での

最重点拠点にしている植田城を攻める際に

香西氏が残っていると

背後を突かれる恐れもあったので

そういう不安要素を除く目的も

あったのかもしれません。



香西氏の藤尾城は

長宗我部勢の讃岐侵攻の際は未完成でしたが

長宗我部氏に降った後に急ピッチで築城が進み

防衛拠点として整備されました。


北と東南に堀、西に空堀を巡らして

近隣の丘陵に作山城と芝山城の

二つの支城を置きました。


また城の周囲には家臣や民衆の

居住区を五角形にビッシリと作ることで

敵勢の進軍速度を落とすという

構造だったようです。

火をつけられたら一巻の終わり

という気もするのですが^^;


藤尾城の防衛拠点としての

評価はマチマチです。


長宗我部氏侵攻前の佐料城よりはマシだが

なぜこんな防御に向かない場所を選んだのか?

と疑問を呈しているものもありました。


西讃岐の香川氏は

 居住用:本台山城

 防衛用:天霧城

という風に使い分けています。


もれも藤尾城は居住用にしてしまい

より険しい五色台の山中に防衛拠点を

構築したほうが良かったのではないか?

と思ってしまいます。



まあ、香西氏は先に書いた通り

讃岐国に古くからある武家です。


先祖伝来のこの土地には

少なからず思い入れもあったのでしょう。


香西氏は讃岐方面軍に敗退し

当主・香西佳清は下野しました。

以後、香西氏が大名として

活躍することはありませんでした。



<つづく>