<つづき>


本山氏が高知平野を放棄したこの時期に
元親は美濃国の斎藤利三(としみつ)
異父妹を正室に迎えました。

この正室の名前は不明です。


元親の母(祥鳳玄陽)も
美濃国斎藤氏から嫁いでいます。


何かしらの縁があったのでしょうけど

もれが探した史料では発見できずです>_<;


年代が他の史料とずれているので

情報の信憑性としては微妙なのですが

長宗我部氏17代目・長宗我部友親氏が

長宗我部氏と斎藤氏の縁について

語っているので掲載しておきます。



前述の通り、元親の母(祥鳳玄陽)は

美濃国守護代・斎藤利良の娘です。


斎藤利良は主家である

美濃国守護・土岐氏との関係がこじれて

守護代職をはずされました。


そして斎藤氏と代々、親交のあった

土佐一条氏に身を寄せたのが1522年だそうです。


確かに他の史料でも

1521年以降、斎藤利良の

守護代としての活動記録が

ほとんど見られないという記述があります。


長宗我部友親氏が語るには

この1522年は元親の父・国親が

一条氏の保護下にありました。


ここで一条氏の仲介で

両者が引き会わされて

縁組が成立したのだそうです。



ただし一般的に国親が岡豊城に戻ったのは

1518年とされており4年ほどずれています。


しかし岡豊城に戻った国親が若年なので

復帰後しばらくの間

一条氏が後見していた可能性は充分にあります。

後見していなかったとしても

斎藤利良を保護して娘の嫁ぎ先を相談され

国親を紹介した可能性も考えられますね。


ここで斎藤家との縁が生じたと思われます。


そして元親が生まれ、元服しましたが

父・国親が死去していたため
元親の母が実家である斎藤氏に婚姻を打診し

斎藤利三の年頃の娘に白羽の矢が立った

と考えられます。


斎藤利三は斎藤義龍の家臣で
義龍の父・道三が乗っ取った斎藤氏と
同じ氏族ですが血縁はありません。
乗っ取ったのですから当然ですがw


ちなみに乗っ取ったというと

聞こえが良くないですが

この時代、断絶した名家の名跡を継ぐ

ということは極当然にあったことで

斎藤道三のような自称以外にも

長宗我部氏のように

養子に入れて家督を継がせる、

高坂昌信のように主君から

下賜されることもあります。


美濃国には斎藤氏という
名門武家とその分家がいくつかありました。


道三は美濃国守護代で男児を残さず失脚し

死去した斎藤利良の家を相続しました。
※当時は斎藤利政と名乗っています。
 ここでは「出家号の道三」で通します。


斎藤利良の曽祖父の代に分家したのが
斎藤利三の家系です。

のちに利三は故・道三の娘(義龍の姉妹)を

正室に迎えたことで
斎藤義龍の一門衆に加えられています。


ややこしいですね^^;


また斎藤利三は明智光秀の
妹(または姉)の子とも言われていますが
根拠が弱いです。


いつものようにまわりくどくなりましたw

さっぱりさせましょう。
※最初からそうしろ?www


系図はこのようになっています。


ざっくりです。


斎藤氏の他の分家や
斎藤利三が明智光秀の云々・・・
斎藤利三が斎藤道三の娘を云々・・・
斎藤利三の娘・福=春日局
などは省略しています。


元親に嫁いだ娘の父・石谷光政は

将軍・足利義輝の家臣です。


斎藤道三が斎藤利良の家督を相続したということは

利良の養子という形式を取ったのでしょうか?

だとすると、元親の叔父(または伯父)

ということになるのでしょうか?


う~ん・・・でも家督簒奪なので

叔父とはいえない気がしますね^^;


元親の子たちは春日局と

従兄弟という関係になるのかな?


現代の考え方では

母が共通の異父兄弟の場合

その子供たちは従兄弟で良い気もしますが

当時はどうだったのでしょうね^^;


まあ、土佐国と美濃国なので

あったとしても手紙のやり取り程度の

交流しかなかったでしょうけど。


もう、わかんね~www

投げ出します!w


いずれにしても

元親の正室が斎藤利三の異父妹ということで
斎藤義龍と姻戚関係を結んだとは
言えないのかもしれませんが
斎藤利三と関係を持ったことは後に影響します。



余談ですが・・・

長宗我部氏の現当主で17代・長宗我部友親氏は

元親の末弟・島親益の子孫だそうです。

明治維新後に島姓から長宗我部姓に改めました。

記録に残る島親益の子と

系図の年代が一致しないそうで

いずれかに誤りがあるのではないかとされていますが

またしても詳細は不明です^^;


<つづく>