<つづき>


北信濃で武田氏、

関東で北条氏との戦いが続く中

1561年に関東管領・上杉憲政は
長尾景虎を養子にして
山内上杉氏の家督を相続させた上で
関東管領職を譲渡しました。


景虎は海路を上洛し
将軍・足利義輝に拝謁すると
正式に関東管領就任を許されました。
※このシリーズの最初に書いたように
 関東管領の任命権は
 室町幕府将軍が持っているのです。



関東管領に就いた景虎は名目上、
関東各国守護の上に立つことになり
関東の騒乱に介入する
大義名分を得たことになります。


関東管領の権限で関東各国守護に
北条氏討伐を号令したことで
多くの大名が景虎に従い
10万という大規模な軍勢で

小田原へと攻め込みました。


北条氏康は篭城策を選択し

北条勢は小田原城、河越城、滝山城など
主要な城に篭城しました。


上杉勢は一気に小田原城を包囲しましたが
当時、随一の堅牢を誇る小田原城は
難攻不落でした。


小田原城を包囲したまま
戦線は膠着状態に陥りました。


北条氏は長期戦に耐えうる

食料、物資を備蓄していましたが

どんなに堅牢な城でも
包囲されたままでは
いつかは食料が枯渇しますし

兵の士気も低下してしまいます。


北条氏康はこの状況を打破すべく
同盟国である武田信玄に
支援を要請します。

※北条氏家督は1559年に

 嫡男・氏政へ譲っていますが

 氏康・氏政の二御屋形制として

 参政していました。


武田氏は北条氏、今川氏と
三国同盟を結んでいましたので
これに応じて北信地方へ進軍すると
川中島に海津城を築き始めました。



小田原攻城戦の膠着と
武田信玄の動向を知った景虎は
小田原攻めを中断すると
兵を引きました。


途中、鎌倉の鶴岡八幡宮で
関東管領就任の儀式を行ないました。


このとき景虎は
憲政の「政」の字の偏諱を受けて
上杉政虎と名乗り
関東管領・上杉政虎が誕生したのです。


そして政虎は越後へ撤退すると
軍勢を整えて川中島へと向かい
第四次川中島の戦いが開始されるのです。


<つづく>