<つづき>


1578年7月1日
勝ち目がないと判断した尼子勝久は

城兵の助命を条件に
開城して降伏しました。


尼子勝久をはじめ勝久の嫡男・豊若丸など
尼子家の要人は自害しました。


これにより尼子再興軍も滅亡しました。


降伏した亀井氏を中心とした残党は
尼子再興を諦めて織田勢の元へと逃げて
以後、羽柴家臣として活動し
徳川政権下でも生き延びています。



山中鹿介はというと

上月城開城にあたり
毛利氏の捕虜となりました。


鹿介は毛利輝元の下へ送られる途上
備中国成羽城で謀殺されました。


謀殺された理由は定かではありませんが
熱烈に尼子再興を目指す人物でしたので
毛利氏に臣従することは無いでしょうし
放置すればいずれまた
再興軍を興す恐れもありました。


吉川元春を何度も撃退するなどの武の才能を
毛利輝元が恐れたのかもしれませんし
輝元が知らないところで
毛利家重臣らが画策したことかもしれません。


出生についての記録があいまいなため
謀殺されたのは
34歳~39歳だったとされています。


山中鹿介の長男とされる
山中幸元は武士を廃して
摂津国川辺郡鴻池村(現・兵庫県伊丹市)で
酒造業を始めて江戸時代の豪商
鴻池財閥の始祖となったとされています。



山中鹿介は尼子氏再興への一途な人物で
忠臣の代表格として伝わっており
三日月の前立てに鹿の角の脇立ての兜が
その代名詞とされています。


また武勇の猛将として知られていますが
逸話などでの発言には
ただ腕力が強いだけではなく
控えめで細やかな心遣いのできる人物という
印象も受けます。


知勇兼備で知られる
吉川元春を何度も撃退していますので
采配も非凡だとは思いますが
やはり個人技の印象が強いですね。


武田信玄が大軍勢を采配する名手とするなら
殿を担って何度も味方を救ったり
一騎討ちで功を成した山中鹿介は
局所戦の名手、個人武の達人

というべきでしょうか?


では次回より本編、毛利輝元編に戻ります。