<つづき>


布部山での敗退で

月山富田城攻めを断念した

尼子再興軍は新山城に撤退して

軍勢の建て直しをはかりました。


しかし毛利軍の勢いは凄まじく

月山富田城を開放するや否や
尼子再興軍の拠点を次々に落としてまわり
1570年7月には
尼子再興軍の拠点は

新山城と高瀬城の2城を残すのみとなりました。


ところが1570年10月4日
毛利元就が吉田郡山城で重病との知らせを受けて
毛利輝元、小早川隆景が
安芸国へと帰還しました。


山中鹿介はこの機を逃さず
残っていた吉川元春軍と戦って
中海の制海権を奪回すると
出雲国と伯耆国の国境付近の城を
次々に落としてまわりました。


高瀬城に篭城していた
米原綱寛との連携を図るために
宍道湖北部に万願寺城を築城し
吉川軍が篭っていた手崎城(平田城)へ
攻め寄せるなどしました。


さらに隠岐国人・隠岐弾正左衛門尉を味方につけ
日本海の制海権を強めて
島根半島全域をほぼ手中に治めました。


この隠岐弾正は先の美保関で反乱した
隠岐為清の分家にあたるようです。


日本海の制海権を得た尼子再興軍は

勢いを取り戻して吉川軍を圧倒し

再び勢力を拡大させました。


この状況を病床で聞いた元就は
隠岐水軍への対抗策として
毛利水軍のひとつを指揮する
児玉就英を出雲へ差し向けました。


児玉水軍は瞬く間に

隠岐水軍を蹴散らしてしまいました。

日本海の制海権を毛利氏に奪われてしまうと
尼子再興軍は再び劣勢となります。


さらに万願寺城が陥落すると
出雲・伯耆の拠点が次々に陥落し
1971年9月に本陣である新山城を
落とされて壊滅しました。


尼子勝久は落城前に逃がされており
一時的に隠岐で隠棲しています。


尼子勝久が逃亡したことで

第一次尼子再興軍は旗頭を失ったことになり

ある者は毛利軍に捕縛され

ある者は再び隠棲するなどして

瓦解してしまいました。


末吉城に篭っていた山中鹿介も
吉川元春に敗北して捕らえられました。


山中鹿介は伯耆尾高城に
幽閉されることとなりましたが
まだ尼子氏再興を諦めてはいませんでした。


<つづく>