<つづき>


隆元の追善を銘打って士気の高まった毛利軍は

白鹿城に対し夜襲を仕掛けました。


これは総攻撃とも言うべき激しい攻撃でしたが
本丸を落とすには至りませんでした。


この夜襲で重傷を負った尼子方の

牛尾久信を捕らえましたが
自害しようとしたため説得して
月山富田城へと移送しました。

武士の情けというものでしょうか?


毛利軍はさらに石見銀山の鉱夫を呼び寄せて
坑道を掘り、水を断とうとしましたが
篭城兵に気づかれて妨害されるなど
難航しますが苦心の末
白鹿城の水源を断つことに成功します。


水を絶ったことで

白鹿城攻防戦は兵糧攻めに突入しますが
夜襲から一ヵ月後に月山富田城の尼子義久は
再び白鹿城救援部隊を派遣し
白鹿城の包囲陣を崩そうとしました。


今回の救援部隊には弟・尼子倫久を総大将に
後衛部隊として山中幸盛(鹿介)も加わっていました。


尼子武将の代名詞ともいうべき
山中鹿介が遂に登場しましたね^^

鹿介は通称であり幸盛が正式な名前です。


WindowsのIMEだと「しかのすけ」は
「鹿之助」と変換されますね。
鹿介、鹿之介、鹿之助、鹿助のいずれも
読みは「しかのすけ」です。


尼子氏の地元である
島根県安来市の観光協会公式サイトでは
鹿介としていますので
これに従って鹿介と表記します。


彼については後で紹介します。


尼子倫久を総大将とする救援部隊が
白鹿城へ駆けつけましたが
毛利軍はこれを撃退しました。


救援に失敗した尼子倫久は
殿を山中鹿介に任せて
月山富田城へと退却を始めました。

吉川元春、小早川隆景が
撤退する尼子倫久軍を追撃しますが
殿の山中鹿介は両軍を7回撃退
尼子倫久軍は無事に月山富田城へ
退却することができました。


援軍が撃退されたことと
水を断たれたことで
白鹿城の城兵の士気は著しく低下し
1563年10月下旬
ついに白鹿城は降伏しました。


父・松田満久は自害し
子・松田誠保は隠岐へ逃亡しました。


<つづく>