<つづき>
陶隆房ら武断派が
主君・大内義隆に対して起こした謀叛
大寧寺の変について
瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺のHPに
逸話が掲載されていましたので
噛み砕いて書いてみます。
大内義隆編で書くべきところでしたが
記事公開後に大寧寺HPを見たもので^^;
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1551年、大内氏家老の陶尾張守隆房が
謀叛を起こし山口を襲いました。
陶隆房と江良房栄が別方向から
攻め寄せて山口はあっという間に
制圧されました。
大内義隆は法泉寺に陣取って
京都を模したため
「城」はその景色に合わないとして
「館」を本拠にしていました。
上図、大内氏館です。
大内氏館は他国でいう
城並みの規模の居館だったのでしょうが
景色を重視したため
堀や防御のための塀などは
無かったということなのでしょうね。
大内義隆は防御に適しない館を捨てて
山あいの法泉寺に陣を張ったのですね。
地図の高嶺(こうのみね)城は
最後の当主・大内義長が築城したもので
大寧寺の変の時点では存在していません。
完成したのは大内義長の死後
毛利氏によってでした。
同様に上図の山口城は関が原の戦い後に
周防・長門を領した毛利氏が
本城とした城なので
やはりまだ存在していません。
文治派のトップであった冷泉隆豊は
嶽山に陣を張りました。
この嶽山。
同名の山は山口県周南市にあり
冷泉氏はさらに東部の岩国市を
所領としていましたが
山口が攻められているこの時に
岩国や周南に陣を張るはずもないので
山口のいずれかの山だと思われます^^;
のちに高嶺城が築かれた
鴻ノ嶺山は別名を岳山というらしく
嶽は岳の異体字ですので
ここに陣取ったのでしょうか。
上図の通り、大内義隆が陣取った法泉寺との
位置関係を考えると
嶽山(のちの高嶺城のある山)と
考えるべきかなぁ?w
すみません・・・
冷泉隆豊にあまり興味が無いので
ここまでにしておきますwww
陶軍の激しい攻撃で
大内義隆の本陣からの
脱走兵が多く出たため
守りきれないと考えた義隆は
冷泉らの諸将を法泉寺に呼び戻すと
軍議を開きました。
抗戦、和議、逃亡の可否を論じて
かつて朝廷で関白を務めたことのある
二条尹房(まさふさ)を交渉役として
陶方の内藤興盛のもとへ派遣しました。
しかし和議は拒絶されました。
抗戦か逃亡しか選択の余地は無かったのです。
結果、義隆の生母や正妻、側室などを
山口郊外の寺院へと避難させた上で
義隆は軍勢を引き連れて
長門国へと逃亡しました。
この義隆の妻らは長寿を全うしたと
伝わっています。
大内義隆の逃亡に際して
冷泉隆豊は殿として
陶方の追っ手を撃退しました。
大内義隆は山越えして
現・長門市の小島港
(当時は三隅の泊まりと呼ばれていた)
この港は当時、大内氏の日本海交易の
中心的港だったようで
ここから石見国へと
逃亡する算段だったようです。
この逃亡に際して
義隆配下の岡部隆景という人物は
大内氏に仕えていた女性や公卿、文人らを
主要な街道から逃しており
陶軍はそのグループを追撃しました。
その間に大内義隆は別の山間の狭道を
逃亡したようです。
つまり女性らは陽動のための
囮にされたのですね。
どれほど大内方が混乱していたかが
窺い知れますね。
一方の陶本軍は山口を蹂躙すると
大内派の諸将や公卿などを
次々に捕らえたり
殺害したりしました。
さらには当時、日本指折りの
文化都市であった山口へと来ていた
多くの文化人、芸能人なども
「大内家を惰弱にした者」として
攻撃対象にしていたようです。
また先年、大内義隆から
布教を認められたキリスト教の
山口教会大道寺のパーデレ(パードレとも)
つまり宣教師たちも追われて
パニックに陥ったようです。
三隅の泊まりに到達した義隆一行は
交易に用いる大型船で逃亡するつもりでしたが
運悪く、船は物資を他の港へ運んでいる最中で
不在だったのです。
地元の家臣らに急いで別の船を
用意させようとしましたが
残っていたのは内陸用の小舟ばかりでした。
さらに悪いことには台風が近づいており
海上は時化ていました。
一度は小舟で荒海へと出た義隆一行でしたが
難破することが疑いようのない
荒天でしたので諦めて陸へ戻りました。
陸伝いに石見へ逃れようとしましたが
折からの雨で増水した川は渡れず
<つづく>



