<つづき>


1555年9月30日の夜は
悪天候で海は大荒れでした。

通常であれば

厳島へ渡ることが困難なほどの

荒天だったと伝わっています。


元就はこの荒天を好機と見るや

毛利軍を二手に分けて厳島へ向かいます。


村上水軍はこの荒天を乗り越える
操船技術を持っていたのですね。


毛利元就と隆元は島の裏側・包ヶ浦へ向かい
小早川隆景は陶軍本陣のある有ノ浦へ向かいました。

青枠部分の拡大

包ヶ浦に上陸した元就は水軍を本土へ戻し
兵に後戻りはできないという覚悟をさせ
文字通り背水の陣を敷いたと言われています。


一方の小早川隆景は陶軍の援軍のフリをして
堂々と陶勢の海軍の中を進んで

陶本陣近くに上陸しました。


小早川勢はそのまま

宮尾城を取り囲む軍勢に加わると見せかけて
宮尾城守備部隊に合流しました。



翌早朝。

包ヶ浦から山を越えた毛利元就・隆元軍と
宮尾城に入った小早川隆景軍は
陶軍に対して同時に奇襲を仕掛けました。


前夜が豪雨だったので
毛利軍が既に上陸していることなど
想像もしていなかった陶軍は大慌てしました。

そのため奇襲への対応も鈍く

大混乱に陥ったとされています。


昨日の記事で

村上水軍が直前に到着したのが

毛利勢優勢となる要因だったと書きましたが

もっと早くに村上水軍が到着していたら

陶勢はそれを察知したかもしれません。


また村上水軍が到着した日の夜が

荒天だったという点が

毛利勢にとって有利に働くことになりました。



混乱の局地にある陶勢は

元就の狙い通り
狭い土地に大軍で布陣していたため

進退もままなりません。


陶軍は総崩れとなり
我先に船へ逃げたため溺死したり
海上を制圧していた村上水軍によって
撃沈されたりと散々な有様でした。


源平合戦の源義経が展開した
一の谷や屋島での奇襲を
彷彿とさせる状況ですね。


陶晴賢も海へ逃れようとしますが
既に逃亡した兵士らによって船は残っておらず
浜沿いに逃げて残っている船を探しました。


しかし船は残っておらず
遂に諦めて自刃しました。


大内・陶と従ってきた勇将・弘中隆兼
山へ逃げ込みましたが

2日間の抗戦の後、討ち死にしています。


毛利勢は史上稀に見る快勝を収めました。



村上水軍が直前ではなく

もっと早くに到着していたら

毛利勢は早くに行動を開始したでしょうから

動向が陶軍にバレていたかもしれません。


村上水軍がギリギリに到着したことで

陶勢が情報を得られないような

嵐の夜に海を渡れたという点が

この戦いの優劣に大きく影響したのではないかと

もれは考えています。

荒天が元就の計算だったかどうかは不明ですが

村上水軍がいなければ夜の荒れた海を

渡れなかったかもしれません。

少なくとも難破するなどして

毛利勢の数は減ったと思われます。


厳島の戦いの最大の功労者は

村上水軍だったことは

疑いようもありませんね。




元就は凱旋後に

首実検(実験じゃないですよw)を行ない
主君・大内義隆を討った逆臣であるとして
陶晴賢の首を鞭で3回叩いたそうです。


このエピソードは元就が
陶晴賢から大内義隆への謀叛を
事前に知らされていた

というエピソードとは矛盾するものですね。


毛利氏の陶晴賢に対する旗揚げが
大内義隆の仇討であり正当なものだという
対外的なアピールだったのかもしれませんね。


また神域である厳島を血で穢したとして
厳島神社を洗って清めた上に
血が染みて赤くなった土を
全て削り取ったという逸話が残っています。



陶晴賢の大敗の要因については
厳島上陸後、すぐに宮尾城を攻めなかったことや
弘中隆兼の「狭い厳島に引き寄せて殲滅しようとする策だ」
という進言を容れなかったことなどが挙げられています。


この点から陶晴賢の采配力や軍事面の才能を
疑問視する見方がありますが
異なる見解として
大内義隆への謀叛の段階で
陶晴賢が正気を失っていたという見方もあるようです。


<つづく>