<つづき>
石見国の吉見征伐中だった陶晴賢は
この毛利氏の反旗に激怒し
重臣・宮川房長を毛利討伐に差し向けました。
反旗を翻した側である元就は
陶晴賢が軍勢を差し向けるであろうことは
予見しており
宮川軍が安芸国に入るや否や
情勢を探る間も与えずに急襲しました。
宮川房長は討ち死にします。
年が明けて1555年。
石見国の吉見氏を討伐した陶晴賢は
自身が大軍を率いて毛利討伐に出征します。
毛利氏は厳島の宮尾城を
陶方から鞍替えさせて傘下に治めていました。
元就は忠臣・桂元澄から
陶軍が宮尾城を攻めれば
その際に陶に寝返って
毛利軍を挟撃するという旨の
偽の内応書を送らせました。
桂元澄の内応を得たと考えた陶晴賢は
最初の攻撃目標を厳島・宮尾城に決めました。
厳島は当時
安芸国の交通と経済の要でしたので
陶晴賢は宮尾城を落とせば毛利氏が弱体化する
と考えて厳島を目指します。
※現在は宮島という通称で呼ばれていますが
記事内では正式名称の厳島で通します。
これまで大内氏・尼子氏傘下の
有力国人だった毛利氏が
大名として歴史の表舞台に立つ
厳島の合戦が目前に迫っていました。
<つづく>