<つづき>
1548年になると大内氏は
肥前水ヶ江城の龍造寺胤信と
正式に同盟を結びました。
正式に、というのは
先年、肥前国守護・少弐氏と
家臣にあたる龍造寺氏が争った際
大内氏は少弐氏と敵対していたため
龍造寺氏を支援していたのですが
この時はあくまでも支援。
龍造寺氏が力をつけたので
同盟を結んだということですね。
もちろん大内義隆が、というより
文治派の提案で、だと思いますが^^;
文治派は合戦ではなく
こういった融和外交で国を維持することを
得意とした武将たちでした。
大内氏規模の大名であれば
同盟を結ぶことで対外勢力を影響下に置けるのだから
合戦をする必要はないと
考えていたのかもしれません。
大内義隆のほうが上位の官職であるため
龍造寺胤信は偏諱を受けて
龍造寺隆信と名乗りました。
有名人登場ですね^^
偏諱を受けている点から
この同盟が対等ではなく
龍造寺氏が大内氏の影響下に入るような
イメージでしょうか?
龍造寺隆信は
強大な大内氏と同盟することで龍造寺家中の
不平分子を抑え込むという思惑を持っていました。
過去の記事で触れましたが龍造寺隆信は
龍造寺本家筋ではなく
分家から家督を相続したため
不満を持つ家臣は少なくなかったのですね。
龍造寺との同盟により
北九州は一時的にとはいえ安定したと言えます。
1550年8月
フランシスコ=ザビエルが山口に来ました。
またしても有名人ですw
ザビエルは西日本随一の大名である大内氏から
布教許可を得るために山口を訪れたのです。
しかし宣教師一行は流浪に近い状態でした。
服装は汚れ、進物も無く、日本の流儀も知らない。
訪れたザビエル一行に対し
大内義隆は興味はあっても
懇意には接しなかったようです。
ザビエルもザビエルで義隆の放蕩ぶりや
仏教を頑なに保護する姿勢、
義隆が男色家である点などを
非難してしまったため
布教の交渉は決裂しました。
義隆は激怒して宣教師一行を追い払い
布教の許可も与えませんでした。
ザビエルはキリスト教と鉄砲を伝えた偉人
と習ったのですが歯に衣着せぬ言動は
布教者としてどうなんだろう?
と思ってしまいますね^^;
正直にってのがキリスト教の教えなのでしょうか?
無信仰なもれにはわかりませんがw
ザビエル一行は近畿方面を目指して流浪を続けます。
日本で一番権限を持った人が
将軍、もしくは天子(天皇)であるという情報から
両者のいる京都を目指したということでしょうね。
ちなみに1550年当時の京都では
室町幕府の将軍はまだ15歳の足利義輝で
細川晴元、細川氏綱が権力闘争をしており
両者の間で三好長慶が
徐々に力を持ち始めていた時期です。
さて、1550年に達したので次回は
本編、毛利元就編に戻ります。