<前回のつづき>


嫡男・信忠よりも次男・信雄のほうが
長く生きた分、色んなできごとがあります。


次男・信雄も嫡男・信忠と同じく
吉乃の子として生まれました。

幼名は茶筅丸。


父・信長が北伊勢の北畠氏を攻めた際に
北畠具房は和睦を申し出ました。
信長は茶筅丸を北畠家の養嗣子(ようしし)とし
北畠家の家督を相続させることを
和睦の条件としました。
※養嗣子:嗣子は後を継ぐ子のことで、
 養子で後継者である子を養嗣子と言います


北畠具房は条件を受け入れたため
茶筅丸は元服して北畠具豊と名乗りました。

その後、北畠家の家督を継承すると
北畠信意と名乗りました。


信長に無断で伊賀国を攻めて大敗し
信長から叱責されることもありましたが
その後、伊賀国を平定しました。


本能寺の変が起こると兵を率いて
仇討ちのため、明智討伐に出陣しますが
伊賀国で土豪衆の不穏な動きを危険視して
すぐに伊勢の居城へ撤退しています。
びびっちゃったのかな?^^;


明智光秀が羽柴秀吉によって討伐され
織田家の今後を決める清洲会議では
信長の後継者になろうと画策します。


ところが織田家中の二大筆頭
羽柴秀吉は亡兄・信忠の嫡男・三法師を推し、
柴田勝家は信雄の庶弟である
信長の三男・信孝を推しました。


信雄は嫡流にありながら
支持されなかったんですね^^;
ムゴい・・・;


<つづく>