<前回のつづき>


東方では相変わらず武田氏との
戦いが続いていました。


しかし武田勝頼は人望に薄く、

家臣の離反も発生していました。


1575年。
武田家臣・奥平貞昌が徳川氏に寝返ると武田氏は
これを討つべく奥平の居城である長篠城に
1万5千の大軍で攻め寄せました。
ネガティブ徒然草


徳川氏の要請により
信長は自身で3万の軍勢を率いて出陣します。

動員数で優位を誇る織田・徳川連合軍ですが
武田騎馬隊は日本中に名を馳せた屈強な軍団で
容易な相手ではありませんでした。


織田・徳川連合軍は三河国・長篠城近くの
設楽ヶ原に陣を敷きます。


信長の出陣を知った武田四天王・山県昌景、

馬場信春、内藤昌豊らは撤退を進言しますが
武田家当主・武田勝頼はこれを取り入れず
合戦するという決断をくだしました。


武田の重臣は死を覚悟して
互いに盃を交わして
決別したと言われています。



織田・徳川連合軍はまず武田騎馬隊の
機動性を警戒し、その進軍速度を落とす
馬坊柵を築きました。


さらに3,000丁の火縄銃を用いた
三段の構えの戦術を用いて
勇名を馳せた武田騎馬隊を粉砕しました。

※三段の構えは織田・徳川発案ではなく
 長篠の戦いでは用いられていないという
 説もありますが、歴史上
 これだけの数の火縄銃を導入し
 これだけの戦果を挙げたのは
 この合戦が初めてでした。


この合戦で原昌胤、原盛胤、
真田信綱、真田昌輝
(この二人は真田幸村の伯父)など
武田氏の名だたる武将が落命しています。


武田勢は12,000人(約8割)の戦死者を出し
軍勢の大半が事実上、壊滅したのに対し
織田・徳川勢は6,000人(約2割)だったと伝わります。

<つづく>