<前回のつづき>


1573年2月。

武田勢は徳川氏の野田城を陥落させますが、

ここで信玄が急死します。

武田信玄の死去により
信長包囲網は西の三好三人衆・石山本願寺、
北の浅井・朝倉を残すのみとなり
事実上、瓦解したことになります。


武田勢が甲斐国へと撤兵したため
1573年7月、織田勢は
再び浅井・朝倉討伐に戻ってきました。


織田勢は3万人。
この大軍勢に長政は朝倉氏に
救援を求めますが
織田勢の侵攻速度は速く
支城を次々に落とされます。


朝倉義景は2万の軍勢で駆けつけましたが
浅井方の支城の陥落を見て
越前国へと撤退を始めます。


長政はこの朝倉勢の撤兵を見て

どう思ったでしょうか・・・。

そもそも長政は朝倉攻めをする

織田勢の後背を突きました。

つまり朝倉氏のために織田氏と

袂を分かったのに

その朝倉氏がケツを捲くって逃げる^^;

それでも織田勢に降伏しなかったのは

意地でしょうか・・・?

義理堅さもここまでくると行き過ぎですね。

浅井長政の評価を下げる要因です。


さて一方の織田勢は

浅井氏の小谷城包囲軍を残して
逃げる朝倉勢を追撃し
そのまま朝倉氏本拠地・一乗谷城まで
陥落させてしまいました。
朝倉義景は自害し、朝倉氏は滅亡します。


織田勢は返す刀で小谷城に猛攻を開始。


織田信長は浅井長政に何度も降伏勧告を
送ってきますが、長政はこれを拒否。

ですが兵糧も尽きかけ

士気も下がる一方。


長政は妻・市と三人の娘(茶々・初・江)を
隠し通路から寺院へと逃がし
信長の保護を受けられるよう手配した後
父・久政とともに自害しました。


この滅亡の直前に羽柴秀吉、丹羽長秀らが

獣道から小谷城内に攻め込んだために

敗北を悟って自害した

という説もあります。


長政は29歳という若さでした。
浅井氏は滅亡しました。

<つづく>