<前回のつづき>


いずれにしても浅井長政は
信長の予想以上の早さで
織田・徳川連合軍の背後を突き
信長は命の危機に陥りながらも
殿をつとめた羽柴秀吉らの奮戦で
京都へと逃げ延びました。


長政が動かなければ金ヶ崎城(現敦賀市)まで
攻め込んでいた織田・徳川連合軍は
一気に一乗谷まで攻め込んでいたでしょうね。
ネガティブ徒然草

この金ヶ崎城の合戦には
いくつかの異説があります。


まず一つ目。
この織田勢の背後を突いた軍勢には
長政や主力家臣が出陣していないという説です。
この説を肯定するなら
長政が出陣しなかった理由は
二通り考えられますね。
1.長政が家臣に命じて出陣させたが
 信長ほどの知恵者なら挟撃を受ければ
 すぐに撤退するであろうと考えて
 自身は出陣しなかった

2.どちらの味方をするか
 悩んでいた長政の許可を得ず
 親朝倉派の家臣が勝手に出陣した
 
いずれにしても、長政抜きで
織田・徳川の名だたる武将たちを
窮地に追い込めたか?
という疑問はあります。
※織田勢は散り散りに逃げ
 京都についた時、
 信長の従者は十数名しかいなかった
 といいますから、家臣だけで
 ここまでの被害を与えられるものか?


二つ目。
そもそも織田氏と浅井氏の間に

明確な同盟がなく、あくまでも足利義昭上洛と

六角攻めという共通の目的のために

一時的に協力関係にあったというものです。

金ヶ崎城を落とした織田・徳川連合軍は
一乗谷城まで攻めずに京都へ凱旋。
その途上に浅井氏の攻撃を受けた
という説です。


これは安芸国・毛利氏に伝わる

文書による説ですが
「そもそも~同盟はなく」は
信憑性が低いと思います。
そのあとの「一乗谷城まで攻めずに凱旋」は
充分あり得るかな?とも思えます。

でもそうすると長政と市の子

茶々(淀君)、初、江は

一体・・・?ということにもなってしまいます。


三つ目。
織田勢が浅井挙兵を知ったのは
近畿地方にいた織田家臣・松永久秀の
諜報活動によるものという説。


四つ目。
織田勢が背後の浅井挙兵を知ったのは
お市の方の密使が信長の元へ
両端を紐で結んだ小豆袋
届けたからという説。


三つ目と四つ目は
どちらも信憑性が低いですねぇ^^;
三つ目については、
松永久秀が臣従し始めた頃なので
手柄を挙げるため、と考えれば
あり得るかな~?とも思えますが・・・。
四つ目はお市の方を良く見せるための
脚色としか思えません!w


もれとしては主な歴史ドラマで描かれるように

「浅井長政が朝倉氏との友誼を取った」

だと思いたいです。


<つづく>