<歴史好き 朝倉義景 9のつづき>


朝倉義景に続いて、浅井・朝倉連合の片棒

浅井長政です。

浅井は「あざい」と読むのが一般的ですが
「あさい」とする人もいますね。


1545年に浅井久政の嫡男として
南近江の六角氏居城・観音寺城の
城下で生まれました。
幼名は猿夜叉丸といいます。


祖父・浅井亮政の時代に下克上で

京極氏の治めていた北近江を手に入れましたが
長政が生まれたときには
南近江を治める六角氏に破れて

臣従していました。


父・久政は六角氏に臣従する形式を取りつつ
北近江を治めていました。

織田信長の父・信秀が守護代・織田信友に
臣従していたのと同じような境遇ですね。
自由度は信秀に比べて
かなり制限されていたようですが。


猿夜叉丸は15歳で元服し
主格である六角義賢の一文字を与えられ
浅井賢政と名乗りました。
さらに六角家臣の娘と強制的に
婚姻させられました。


しかし賢政という名と妻を六角氏に返上し
浅井新九郎長政を名乗り
六角氏の支配からの離脱を宣言します。


もちろん六角義賢は

浅井追討軍を挙兵しますが
長政は15歳でありながら智勇に優れ
これと見事に渡り合いました。

また内政面でも清廉で名君の器であり
家臣団は長政に心服したようです。

父・久政の弱腰な態度に辟易していた
家臣団は久政を追放して隠居させました。


長政は強引に浅井家の家督を
相続させられることになりました。


長政が独立してすぐに六角家中で
重臣・後藤賢豊が暗殺される
という事件が発生します。
観音寺騒動と呼ばれるこの事件で
六角家中は混乱に陥りました。


この隙に長政は美濃遠征を敢行しますが
留守になった北近江に六角氏が侵攻。
すぐに軍を翻して見事に六角氏を
撃退しています。


観音寺騒動とこの勝利で
六角義賢と浅井長政は休戦協定を結び、
膠着状態になりました。


<つづく>