<歴史好き 今川義元 3のつづき>


今川義元の上洛を目指した征西。
ネガティブ徒然草

現代の人から見れば
『今川義元だろ~?あんなん余裕だよ』
という感じに思われるかもしれませんが
当の織田家内は戦々恐々だったでしょう。


現代人は桶狭間の合戦の結果を知っているし
その後の信長の飛躍に比較すると
今川義元はたいしたことない
と思うでしょうから。
※このブログを読んでいただいているかたは
 今川義元が鈍愚ではないと
 知ってもらえたと思うので
 織田家がどれほど絶望的だったか
 わかっていただけると思います^_^;


当時の合戦の多くは数百人から数千人規模の
陣組なのに対して今川勢は2万5千人の大軍で
征西したことを考えると
その規模がずば抜けていたことは明白ですね。


織田勢は尾張を統合した
この時ですら総勢は5千人でした。


信長公記(しんちょうこうき)では
今川勢は4万5千人と伝わっていますが
どちらが正しいか、明らかではありません。


信長公記は信長寄りな書物なので

少なく伝わっている方の
2万5千人だとしても5倍の敵です。


しかもただの2万5千人ではなく
既に戦国にその名を馳せていた

武田氏北条氏と渡り合った軍勢です。


古参の家臣団には信長の父・信秀が

三河攻めで大敗を喫している相手

という記憶もあり、ただならぬ動揺が

家内を駆け巡ったことでしょう。



桶狭間の合戦は信長を主人公として描く物語の
序盤の山場の一大合戦で、多くの物語では

信長をカッコよく見せています。
・・・が、支城を次々に落とされ、後が無くなり
決死の覚悟で「桶狭間の地の利」にすがって
行なった急襲が功を奏したとも考えられます。


もちろん今川義元の油断天候条件
桶狭間の地の利を活かした織田勢の奇襲
といった複合した条件の上に
織田勢の勝利があるのですが
もれは今川義元を低く評価してはいません^^;


低く評価するとすれば
義元が桶狭間で休憩するのを諌めず、

さらに織田勢が本陣を急襲するのを

防げなかった家臣団でしょうか?^^;


今川義元は討たれ信長は天下に名を
知られるようになりました。


引っ張った割に桶狭間

短いじゃん!w

だって・・・読むもの、見るもの

全て違う脚色をされてて

どれが事実かわかんないんだもの^^;


例)今川勢が桶狭間に差し掛かるまで

  信長は昼寝して待っていた説と

  今川勢が桶狭間で休憩しているという

  情報を得て、急襲した説

 前者は最初から桶狭間を狙っていたことになるし

 後者はたまたま桶狭間という地の利のある場所で

 今川勢が休憩したことになります。


例)桶狭間へ織田勢が急襲する際

  今川勢からその姿が発見されるはずが、

  急襲途中の急な雨(霧?)で

  見つからずに急襲できた説と

  雨天を利用して急襲した説

 前者は運良く見つからなかったことになるし

 後者は天候に助けられたものの

 雨を計算に入れていたことになります。


などなど脚色によって全然異なるんです^^;

なので結果だけ書きましたw


<つづく>