おととい、某駅を歩いていたら、いつもそこの東口にいるホームレスの女性を見かけた。

目には包帯が。

その端からは痛々しい傷が顔を覗かせる。

どう見ても不自然な怪我だ。

何か理不尽な事件にでも巻き込まれたんじゃないんだろうか、と心配してしまう程だ。


昨日、バイトの昼休みにコンビニ弁当を携えて、近くの公園に向かった。

そこの公衆トイレの出入り口の前に、ホームレスの男性が寝そべっていた。

トイレの方に顔を向けて、である。


胸が詰まった。


彼らにだって、生まれたとき、その誕生を喜び、その先の人生に幸福が待っていることを祈ってくれた人たちが居たに違いない。

そんなことを想うと、急に息が苦しくなる。


公園のベンチに腰を下ろし、弁当を開けると、あるコトバが蘇った。


学部2、3年生の頃だっただろうか。

地元の奨学会の集まり。

ある理事が、半ば冗談めかして、奨学生たちに訓示を垂れた。


 「何で勉強しなきゃいけないの?」と子供に聞かれたとき、

 私はホームレスの人たちを指差して、

 「ああなりたいか?」と聞き返すことにしているんです。

 「なりたくないだろ?だったら勉強しなさい。」

 これはとても効くんですよ。


心がチクリとした。何かが違う―。


ご飯を口に運びながら、あの時の違和感を問い詰めてみる。

行き着いた先は、教育論だった。


そもそも、幸福になるための学習を動機付けるのに、この手の脅しを持ち出すのは、根本的に間違っている。

なぜなら、幸福と恐怖は相容れないものだからだ。

幸福になるための学習が恐怖に駆られていては、本末転倒である。

そうやって学問に向き合わされた子供たちの末路は悲惨だ。

疑心暗鬼に陥る子供が出てきてもおかしくない。


勉強について諭す場面で、ホームレスの人たちを引き合いに出すのなら、むしろ、

「そういう社会問題が生じるのはなぜだろうか」

「彼らを救うにはどうしたらいいんだろうか」

と思えるような心を育てるべきなんじゃないんだろうか。


そういう知的好奇心に裏打ちされた学習意欲は本物だ。

「学ぶこと=知的好奇心を満たすこと」という図式が成立すれば、学ぶこと自体が幸福になる。

幸福とは、満足に拠るものだ。


そんなことをつらつらと考えていると、改めて、教育という行為の重大さに気づかされる。


単に知識を教授するだけでなく、学ぶ喜びを伝えることで学習者を幸福にする、

そんな教育者になれたらどんなに素敵なことだろうか。


公園に来てから1時間が経過していた。

僕はベンチから立ち上がり、ふたたび男性の前を通って、バイト先に戻った。