明日はセンター試験です。
センター試験を受験する3年生は、本日の授業を3限で打ち切り、明日の受験会場の確認に生かせました。
学校単位で受験場が振り分けられているので、年により受験場が異なります。
今年は、学校からかなり距離のある大学が会場となっており、生徒に遅刻し無いように自宅から会場までの再確認が行われました。
明日は、私も、7時頃には会場校へ出向くことになっています。
学校にもよりますが、私の勤務校は大半の生徒が受験するため、多数の教員が動員されます。
センター試験は私が生徒の頃にはまだ無かった試験制度で、教員になった当時は共通一次と呼ばれていました。
共通一次の頃は、国公立を受験する生徒のみが対象でしたが、最近では私学も参加しており、規模が拡大しています。
ただ問題点も、多くあります。
ここで、センターの問題点を論っても仕方がないので止めますが、現在のような形態ではなく、フランスのバカロレアのような物が望ましいのではないかと思います。あくまで私見ですが。
生徒達には、明日は頑張ってもらいたいと思っています。
明日・明後日は、雪が降りそうだととの予報が出ています。
なんとか、天気が持ってほしいと思っています。
本日も帰宅後、弟の遺品の整理に追われています。
今一番困っているのは、弟の残した大量のスーツです。
私も、50着近くスーツを持っていますが、弟は遙かに多くの服を持っていました。
家に残されていた冬物のスーツとブレザーだけで48着あります。クリーニング屋さんに確認をしたところ、此外に間物と夏物が64着預けてあるとのことでした。
私と比較的体型が似ているので、ブレザーの類は私が着ますが、着られない物も多くあります。
そのうち良い物は、送料を付けてユニセフ経由でアフリカ等に送っていただく予定ですが、全ては不可能です。
親戚等で頂いてくれる方を探しながら、どうしようもない物は廃棄することになります。
私達の父親が亡くなった時も、衣類の処分に苦労しましたが、弟の法がもっと困るとは思いませんでした。
私も迷惑のかからないように、自分の身の回りを整理しようかと思っています。
それでは、おやすみなさい。
今一番困っているのは、弟の残した大量のスーツです。
私も、50着近くスーツを持っていますが、弟は遙かに多くの服を持っていました。
家に残されていた冬物のスーツとブレザーだけで48着あります。クリーニング屋さんに確認をしたところ、此外に間物と夏物が64着預けてあるとのことでした。
私と比較的体型が似ているので、ブレザーの類は私が着ますが、着られない物も多くあります。
そのうち良い物は、送料を付けてユニセフ経由でアフリカ等に送っていただく予定ですが、全ては不可能です。
親戚等で頂いてくれる方を探しながら、どうしようもない物は廃棄することになります。
私達の父親が亡くなった時も、衣類の処分に苦労しましたが、弟の法がもっと困るとは思いませんでした。
私も迷惑のかからないように、自分の身の回りを整理しようかと思っています。
それでは、おやすみなさい。
年明けから、弟の遺品の整理を始めました。
弟は、自分の体を含めて、それぞれの遺品の行き先を決めていましたが、中に焼却処分にしてほしいとの要請があったものがあります。
それは、写真と日記です。
私も好きではないのですが、弟はとても写真が嫌いで写真は1年に一度とる職員写真と数年に一度とる免許証の写真だけでした。
そんな弟でしたが、二〇代の若い頃にとった写真が多数ありました。
それを、残したくないと言うことで、一周忌に空へ返すことにしました。
もう一つの依頼品の日記なのですが、弟が小学校時代から付け続けた日記は、ダンボー箱に1杯あります。
本人が焼却してほしいとの意向でしたからそれに沿うつもりですが、最後の3年分については残しておこうかと思っています。
最後の3年分には、弟の揺れ動く本音が詰まっています。
ブログで見せていた弟の姿ではなく、私や徳柱が見ていた生身の弟の姿がそこにはあります。
悩み苦しむ姿は、私達以外に は知られたくない、それが弟の気持ちでした。
他人に見せることはせず、でも、弟が生きた証拠として、最後の3年分を残そうかと思っています。
寒い日が続きます。皆さん、お体を大切に。おやすみなさい。
弟は、自分の体を含めて、それぞれの遺品の行き先を決めていましたが、中に焼却処分にしてほしいとの要請があったものがあります。
それは、写真と日記です。
私も好きではないのですが、弟はとても写真が嫌いで写真は1年に一度とる職員写真と数年に一度とる免許証の写真だけでした。
そんな弟でしたが、二〇代の若い頃にとった写真が多数ありました。
それを、残したくないと言うことで、一周忌に空へ返すことにしました。
もう一つの依頼品の日記なのですが、弟が小学校時代から付け続けた日記は、ダンボー箱に1杯あります。
本人が焼却してほしいとの意向でしたからそれに沿うつもりですが、最後の3年分については残しておこうかと思っています。
最後の3年分には、弟の揺れ動く本音が詰まっています。
ブログで見せていた弟の姿ではなく、私や徳柱が見ていた生身の弟の姿がそこにはあります。
悩み苦しむ姿は、私達以外に は知られたくない、それが弟の気持ちでした。
他人に見せることはせず、でも、弟が生きた証拠として、最後の3年分を残そうかと思っています。
寒い日が続きます。皆さん、お体を大切に。おやすみなさい。
今日は、三ヶ月に1度の検診日でした。
一応寛解になったとはいえ、まだまだ油断大敵との事で、定期検診は続いています。
煩瑣ではありますが、検診が六ヶ月、1年とその間隔が延びて検診の必要がなくなるまで、どきどきしながら受け続けていくことになります。
いつもなら、弟の病室を訪ねていくのですが、今日はNSにだけよって、顔見知りになった師長さん達に挨拶して戻りました。
検査の結果は後日いただく事になります。
弟は、「検査結果は結果・数値は数値に過ぎない」と、何時も言っていました。
私の「たまには、担当医の言うことを聞け」との言葉は、スルーすることが多かったです。
でもそれは、弟にしてみれば、自分を叱咤するための言 葉だったのだろうなと思っています。
今日は、此までです。おやすみなさい。
一応寛解になったとはいえ、まだまだ油断大敵との事で、定期検診は続いています。
煩瑣ではありますが、検診が六ヶ月、1年とその間隔が延びて検診の必要がなくなるまで、どきどきしながら受け続けていくことになります。
いつもなら、弟の病室を訪ねていくのですが、今日はNSにだけよって、顔見知りになった師長さん達に挨拶して戻りました。
検査の結果は後日いただく事になります。
弟は、「検査結果は結果・数値は数値に過ぎない」と、何時も言っていました。
私の「たまには、担当医の言うことを聞け」との言葉は、スルーすることが多かったです。
でもそれは、弟にしてみれば、自分を叱咤するための言 葉だったのだろうなと思っています。
今日は、此までです。おやすみなさい。
妹の発病後、私が発病し、それを追うように弟も発病しました。
私と妹は手術をましたが、弟右派化学療法のみに頼ることを決めました。
しかしそれも無理があり、5年前に最初の手術を受けました。
母親の介護もあり、弱音を吐かない弟が私に愚痴をこぼすなど、かなり精神的に追い込まれてました。
この頃、弟の状況を心配した康君の奥さんの亜紀さんが、ブログを始めるように勧めたようです。
それが、現在のブログの前の「不良教師の闘病日記」でした。
このブログ初期の頃に、私を含めて周りの人々のことを書いていたので、読者に容易に個別判断が出来てしまい問題が起こり、個別判断が出来ない形での「闘病日記」に書き換えたようです。
手術前後に、大変な波乱があったようです。プライバシーの問題もありますのでこのことは、止めておきます。
弟が手術に同意したのは、化学療法が限界に来ていたのと、全身への転位があったからです。
手術後の弟は、入退院を繰り返しました。
長期に入院をすれば可能性はあったのですが、弟の母親の介護をする為に、退院をしていました。
私が代わりに行ってやると言っても、自分の母親だから手を出さないでくれと断られ続けました。
実際には弟の母親は意識のない状態で病院に居るのですから、私が行っても問題ないはずなのですが、弟のプライドがゆるさなかったのでしょう。
ただ、母親の介護は、あれほど病状が悪かった弟が生きていられた原動力になったのは、間違いないと思います。
弟の口癖は、「自分が死んだら、母親が死んでしまう」でしたから。
又長くなりました。申し訳ありません。ここまでお読みくださったことを、感謝します。
私と妹は手術をましたが、弟右派化学療法のみに頼ることを決めました。
しかしそれも無理があり、5年前に最初の手術を受けました。
母親の介護もあり、弱音を吐かない弟が私に愚痴をこぼすなど、かなり精神的に追い込まれてました。
この頃、弟の状況を心配した康君の奥さんの亜紀さんが、ブログを始めるように勧めたようです。
それが、現在のブログの前の「不良教師の闘病日記」でした。
このブログ初期の頃に、私を含めて周りの人々のことを書いていたので、読者に容易に個別判断が出来てしまい問題が起こり、個別判断が出来ない形での「闘病日記」に書き換えたようです。
手術前後に、大変な波乱があったようです。プライバシーの問題もありますのでこのことは、止めておきます。
弟が手術に同意したのは、化学療法が限界に来ていたのと、全身への転位があったからです。
手術後の弟は、入退院を繰り返しました。
長期に入院をすれば可能性はあったのですが、弟の母親の介護をする為に、退院をしていました。
私が代わりに行ってやると言っても、自分の母親だから手を出さないでくれと断られ続けました。
実際には弟の母親は意識のない状態で病院に居るのですから、私が行っても問題ないはずなのですが、弟のプライドがゆるさなかったのでしょう。
ただ、母親の介護は、あれほど病状が悪かった弟が生きていられた原動力になったのは、間違いないと思います。
弟の口癖は、「自分が死んだら、母親が死んでしまう」でしたから。
又長くなりました。申し訳ありません。ここまでお読みくださったことを、感謝します。