あぜくらの集い、このところ続いて当選できて、嬉しい!
なかなか、技芸員さん方の素のお姿を拝見する機会は少ないし、
まして、普段黙ったままの、人形遣いさん。どんな方かな?と楽しみに伺う。
聴き手は、上方落語の桂吉坊さん。
この方は、各界の至芸の方々へのインタビューが本になっている、いわば伝統芸能精通の落語家さん。
当然、文楽との付き合いも長く、二十年ほど、とおっしゃる。
当時、文楽劇場の当日券は取りやすく、気軽に見に行くように、師匠や大師匠から勧められたという。
しかし、幸助さん、お若く見えます!プロフィール見ると、もう五十過ぎなのね。
なのに、微塵も「オッサンぽさ」が無い!!
十分、男前でいらっしゃる♪
これは、文楽という世界が、異様なくらいの高齢社会で、五十、六十ハナタレ小僧。
七十でやっとそこそこ、というとんでもない世界だからかもしれない。
祖父が三代玉助。父が玉幸という家に生まれ、どんな風に文楽の人形遣いとなっていったか、ということから。
小さい頃から、朝日座楽屋に出入りして、父の帰りが遅くなるときは、早く帰れる(幹部の)玉男師匠に、連れて帰ってもらっていた。
家が近かったそうだ。
朝日座楽屋での、父のタバコの灰が燻って、危うくボヤか?というのを救ったのは、幸助少年だったそうだ。
朝日座焼失危機回避、という大手柄!
そんな、子供のころの記憶は、朝日座の匂いの記憶から始まるという。
膠と、柿渋。この匂いが立ち込めていたのが朝日座の楽屋だったそうだ。
さぞ、臭かったでしょうが、それでもしょっちゅう遊びに行っていた、というのは、惹きつけられるものがあったからでしょうね。
家でも、箱にゴムを渡しかけて三味線の真似をしたり、人形があれば、人形動かしたり、
文楽ごっこをする少年が、人形遣いになることを意識し始めたのは、中学に入る頃。
卒業と同時に、渋る父を母と説得して、入門するやいなや、パパと呼んでいた父は、厳しい師匠になる。
文楽の修行がはじまり、遅く帰っても、師匠の晩酌と一時間続くお小言が終わるまで、ご飯も食べられなかったという。
10代の少年だ。さぞお腹空いたでしょう。お母様も、切なかったでしょうね・・
そういう少年時代があったためか、
やたら、「食べに行く」「宴会」「打ち上げ」「料理屋」というキーワードが、繰り出され、
吉坊さんにさかんに突っ込まれている、幸助さん!(^^)
修行は、脚遣いから、左遣いへと進むが、どういう心構えで日々過ごしていたのか、という話が興味深い。
そして、主遣いになって、稽古というのは、初日の前日だけなので、
ダブルキャストの後半に出るときはなどは、全くのぶっつけ本番だというのに驚く!
そうなると、脚と左は、昨日までやっていたわけで、二人には、頭真っ白にして行ってくれ、
と頼むのだそうだ。
確かに、前日までの人と、微妙に遣い方が違うんでしょうね。
聞いてみないと、分からないご苦労!
上背があって、ダイナミックに遣える幸助さん。
玉助になられてからは、ますます大きなお役を遣うことになるでしょう。
襲名に至るまでの経緯も、文楽は独特だな、と思ったのは、
まずは自身の希望があり、つぎの段階として、人形遣いトップの簑助さんへ、お手紙でお願いしたのだという。
簑助さんのお許しが、鮎を食べさせる料亭に呼ばれて、出たのだそうで(笑)
襲名披露狂言の希望は出さなかったのに、簑助さんから言われたものが、一致したのだという。
そして、その「勘助住家」には、簑助さんが付き合って出て下さる。
これは、おそらく、狂言を提案した時から、出るおつもりだったのでしょうね。
様々にお話を繰り出され、聞き出された吉坊さんにもお礼申し上げたい。
四、五月の襲名披露公演のご成功を、お祈りします。
このあと、赤坂文楽へ(幸助さんが徳兵衛の「曽根崎心中」)

