4月ももう終わり。
こちらでは下旬になって迎えた桜も、あっという間に散ってしまいました。
庭では、去年咲いて、掘り起こすことのなかったチューリップの球根が、今年も花を咲かせています。
去年の春は、花なんて、全然見てなかったな。
とてもそれどころじゃなくて。
春があったのか、それすらもはっきりと覚えていない感じです。
去年はいろんなことがあって、すごく辛い時もあったのだけれど、それをとても正直に書くことはできませんでした。いろんなことが、こわくて、こわくて、仕方なかったから。
吐き出せなかった分、余計に辛かったのかも知れません。
一年以上経って、
今だから、正直に、いろんなことに向き合って、心の内を冷静に書けるような気がします。
ここまでの時間が過ぎるまで、息をするのも苦しいほど、もがくような気持ちで過ごした時期がありました。
それは、水や物資に不自由していた震災直後ではなく、原発が水素爆発を起こした時でもなく、そして、放射能汚染の問題の長期化を余儀なくされている現在でもないのです。
私にとっては、紛れもなく4月の下旬からのことでした。
3月に、一度、福島を離れようと、スーツケースを広げました。
当時、まだ、JRは復旧せず、ガソリンもわずかしかない中、産まれて間もない2ヶ月の赤ちゃんを含む、3人の子どもを連れて、高速バスに乗るつもりでした。
中には子ども達の着替え、赤ちゃん用品、薬、それより、kaniに必要な米粉や、米の麺など。
子ども達のリュックには、ペットボトルのお茶と、お菓子(食糧という意味合いだった)。それから、お絵かきができるような、白いノートと、サインペンのセットを入れておきました。
でも、いつまでなんだろう。
monの卒園式や入学式を目前に控え、それだけの大変な思いをして、私は、いつまでココを離れたらよいのだろう?
結局、その後原発の危機的状況を見守りつつ、福島で3月を過ごしました。
3月の終わりから、4月の始めにかけて、福島を離れていたお友達も、帰ってきていました。
もちろん、そのまま、福島を離れたお友達もいます。
大変な中で、入学式を行って、日常は、少しずつ、戻ってきていると感じていたのです。
けれども、文部科学省から、学校における放射線基準年間20ミリシーベルト、という問題が出てきて、また私たちの周りは急に騒がしくなりました。
今だから書きますが、うちの子どもの通っている学校は、4月、「毎時3.8マイクロシーベルト」以上の放射線量が計測された学校でもあります。
地方の新聞社やテレビ局が取材にきて、地方ニュースに映し出された我が子の学校は、すぐさま動画サイトに投稿され、世間の注目を浴びてしまいました。
親は何を考えているのか。
子どもを見殺しにするのか。
そんな言葉が、親たちを傷つけたことはいうまでもありません。
その後、偉い方が、涙ながらに辞職したりして、騒ぎは加熱の一途をたどりました。
20ミリシーベルトの撤回を。
20ミリシーベルトならば、授業停止を。
福島の子ども達を学童疎開させよ。
そんな動きが、日増しに活発になっていきました。
私は母親として、一体どうすればいいのか。
錯綜する情報の中で、この頃、私は、毎日毎日、考えて、考えて、考えて、くたくたなのに、夜になると眠れず、浅い眠りの中で歯を食いしばり、
おそらく、病気の一歩手前まで行っていたような気がします。
どこに行けば良いんだろう。
いつまでここを離れればいいんだろう。
1人で、子どもを3人、育てられるんだろうか。
行って、戻ってきて、転校を2回もさせて、子どもは大丈夫かな。
学童疎開?
子どもだけ親元を離すなんて、絶対できない。
毎日、そんなことで堂々巡り。
この頃、福島の実情を知らない遠くの人たちは、あたかも学校は20ミリシーベルト、ぎりぎりまで子どもを外に出すかのように憤っていましたが、実態はかなり違っていました。
子ども達は長袖、マスク着用。
送り迎えも親の判断で。
屋外活動は一切なし(一年生の生活科の栽培も教室内でした)。
娘の担任からは、不安なことがあったら、何なりと要望して欲しい、と言われていました。
それは、つまり、授業単位で参加させない自由も認めるし、この日は登校を見合わせます、という自由も認められる、ということでもありました。
それはおそらく、我が子の学校に限ったことではなく、例えば中学生の部活動であるとか、給食に対する保護者の不安に対して、「そんな大げさな」と軽んじたり、ましてや許可しない学校など、市内の学校では私は一切聞いたことがありませんでした。
ですから、20ミリシーベルトで授業停止、というのは、個人の判断でどうにでもできたことだと思うし(親の判断で登校をさせなければ良い)、この頃、鉄筋コンクリートの子どもの学校は(グランド土壌改良工事前)、屋内で0.09マイクロシーベルト/時、一方木造の我が家は、当時は測定の手段がなかったのですが、おそらく0.5~0.7マイクロシーベルト/時程度だったと考えられるので、学校に行っている方が子どもにとってはるかに安全だったのです。
私を追い詰めていたものが、わかりますか。
放射能の不安はもちろんですが、それが一番ではありません。
私は、「福島の子どもを救え!」という、声でした。
このまま、子どもを手元に置いておいたら、周りがそれを許さない。
子どもを福島の学校に通わせると、ひどい親だと非難される。
いつか、私の子どもが、私の手元から引き離されてしまうのではないか。
そんな不安が、毎日私を襲い、毎日、怖くて、怖くて。
誤解を恐れずに言えば、
もしも私の子ども達に、将来健康被害が出たら(出ても良い、と言う意味ではありません)、その時私は国なり東電なりを相手に戦えばよいのだと思うのです。
でも。
この善意の運動に対して、
家族が引き裂かれることで、その後取り返しのつかないことにはならないのだろうか?
子どもを疎開させて、子どもが心に一生癒えない傷を負うことは、絶対ないのだろうか?
転校を繰り返すことで、不登校になったりすることだって、考えられる。
疎開先で、子どもが事故に巻き込まれたり、不慮の事態に陥ることがないとはいえないのでは?
もしも私が、仕事を辞めて、家も手放して、二重生活をすることで、経済的に今よりずっとずっと苦しくなって、10年後、20年後、何もなかったら・・・?
一体、誰が責任を取ってくれるんだろう。
きっと、誰も責任なんて、取ってくれない。
だって、これは「善意」なのだから。
そう思うと、私を追い詰めているものが、助けようという善意なり良心なだけに、誰にも本当の思いをはき出せず、苦しい思いが、ずっとずっと、私の中にたまっていたのだと思います。
誤解のないように、書いておきますが、私は、この20ミリシーベルト問題で、いろいろな運動があって、その運動を批判しているわけでも、それらに賛同した人を責めているわけではありません。
この運動にも、意味があったのだろうと思うし、私とは違って、この運動に力をもらって助けられた「福島の親」もたくさんいるはずだからです。
ただ、私みたいに、無力で、小さな母親は、この大きなうねりの中で、自分の判断に自信が持てず、ただ流されそうになっておたおたと苦しむしかなかった、ということをどうしても書いておきたかったのです。
ここに遊びに来てくれているお母さんの中には、私と同じく、アレルギーの子どもを育てている方が多いのだと思います。
たった一泊、旅行に行くだけでも大変なアレっ子。
その子どもを連れて、見知らぬ土地で暮らすことや、その子を親元から離して他人に預ける、ということがどれほど苦しい選択か、多分、想像に難くないと思います。
福島で子育てしていると、周りが「それはおかしい」と責め立てているのではないか、というような気持ちになりました。
でも、
人体実験だの、モルモットだのと揶揄する言葉に、胸を切り裂かれない親なんていないのです。
もしも、これを遠くで読んでいる方に、福島に住んでいる親しいお友達がいたら、面と向かって「人体実験じゃないの?」とそんなひどい言葉がかけられますか。
なんの責任も取れないのに仕事を辞め、家を売れ、とお友達に言えますか。
私も県外へ行くことを何度も、何度も考えました。
でも、やめました。
なぜならば。
私の精神的な苦しみが、県外に行ったからといって、晴れるわけではない、と気がついたからです。
「いつ帰れるの?」
という子どもの問いに、まっすぐに答えられないであろう、ということに気がついたからです。
福島にいることで、ガマンもさせてしまうだろうけど、家族が揃っている安心感、経済的な土台があることで、私はきっと、より多くの安心感を子どもに与えてやることができる、とわかったからなのです。
そして何より、今の生活が、ただ働いて、収入を得て、というだけではなく
ひとつひとつが自分たちの夢や目標を積み重ねてきたものである、と気がついたからです。
それらの全部を今が、手放す時なのか、と言われたら、そうではない、と夫婦で判断したのです。
私の眠れない時期は終わりました。
私はここで子どもを守っていくんだ。
そう決めたら、いろんなことがラクになりました。
このエントリは、実はだいぶ前に書いて、公開せずにいたものです。
今振り返って、改めて読んでも、やっぱり、これが私の正直な胸の内で、これをちゃんと吐き出すことが私の大事な一歩なんだと感じたので、アップすることにしました。
福島での生活は、依然として、様々な制限があります。子ども達が、伸び伸びと遊べる場所もごくわずかで、わざわざ遠出して子ども達に外遊びをさせている状況は変わっていません。
それでも、それ以外のことでは、本当に、本当に普通の、ごく当たり前の生活をしているのです。
前々回のエントリで、娘が沖縄に行ったことを書きましたが、何の心配もない場所で、自由に外で汗を流してさえいられれば、子どもが心身ともに健康でいられるかと言えば、決してそうではないんだ、ということを書きました。
制約があっても、それでも普通で、穏やかで、安心していて、ストレスがない、それがどれぐらい大切なのか、私たちは、この一年で、痛いほど学んできたのです。
最後に、この記事のコメント欄を閉じようか、迷ったのですが、言いっぱなしでは無責任かなぁ、とも思ったので、そのままにすることにしました。
でも、コメントのお返事がうまくできる自信がありません。
コメントにお返事ができないときは、どうかお許しください。
私が苦しかった時から、一年が過ぎました。
今は、とても元気です。
そして、ここに留まって、自分は間違ってなかった、と心から思っています。
子ども達もみんなとても元気に過ごしています。
いつか、子ども達が大きくなったら、桜の花を見ながら、あの時の話をしようと思っています。
すごく苦しかったけど、守るべき人たちがいたから、がんばれたよ、と話したいです。
ああ、一歩、踏み出せたかな。