3.11 あの日から5ヶ月が過ぎました。


雪が舞う、とても寒い日だったことが信じられないかのような暑い毎日の中で、ずいぶん昔のことのような、それでいて、あっという間でもあったと感じられるこの5ヶ月間のことを思い起こしていました。


8.6にはヒロシマの、そして8.9にはナガサキの。


夏を迎え、私が意識してこなかっただけで、色んな場所にいる、たくさんの人たちが、それぞれの「あの日」を抱えて生きているのだ、と感じるようになりました。


もちろん、私たちにとっての「あの日」は3.11なのです。


あの日、いつまでも続くかのように感じた揺れの中で、まだ、首もしっかりとすわっていない赤ちゃんを抱きかかえ、おろおろとするしかなかった私。

雪の中、着の身着のまま逃げた娘たちを迎えに行って、この夏がどんな夏になるかなんて、その時の私は、予想すらしませんでした。


ここは被災地なのか。

私は被災者なのだろうか。


ずっと、自分でもよく分からなかったのです。


最近になって、やっぱり、自分は被災者なのだと、自分の中でも納得できるようになりました。


あの日、ほんのわずかな時間で、たくさんのものを失った人たちがいて。

自分たちは、そうではないんだ、と思うのだけれど。


町も家も人も、ほとんど姿を変えず、そのままであるのだけれど、やっぱり、私の住む町は、いろんなものを失ってしまったよね。


それは、ベビーカーでお散歩する赤ちゃんの姿であり、

外を走り回る子ども達の姿であり、

そこから聞こえる子ども達の声であり、

ご近所で家庭菜園の野菜を譲り合う姿であり、

夜には、あちこちの家庭から花火のにおいと煙が漂ってくる

毎年訪れる、当たり前の夏の風景の中の、当たり前のものだったりするのです。


3月に、一時的に福島を離れた人も、4月には戻ってきていたのだけれど、4月の下旬から、また世間が騒がしくなってしまって。

福島に住む私は、いろいろなものを見失いそうになって、しばらく、自分の判断というものに自信が持てずにいました。


おそらく、福島で小さな子どもを育てている親ならば、みな迷って迷って迷って迷って、毎日毎日を、これでいいのか、これで本当に間違っていないのか、と問い続けているのではないかと思います。


私は、ここに留まることを選んだけれど、そのことに対する後ろめたさや、誰かに非難されるんではないか、という思いがなかったといえば嘘になります。

けれども、福島を離れたお母さんが、どんな気持ちでいるのだろう、と考えた時に、おそらく、福島から避難していても、留まっている私と同じように、何らかの後ろめたさや、誰かに非難されるのではないか、という不安を抱えているんではないのだろうか、と推測したりするのです。


福島を離れることも、留まることも。

きっと、どちらも間違ってない。間違いは、どこにもないんだ、と私は考えています。


どうか、避難した人も、そうでない人も、自分の選択した道を後悔することなく、心穏やかに毎日が過ごせる日が一日も早く訪れるといいな、と願ってやみません。



最近は、宮城や山形、栃木などに足を伸ばして、子ども達を遊びに連れて行っています。

宮城では、内陸の私たちがテレビでしか見ることのなかった、がれきの山を見ました。

地震の被害は、地震と、津波と、原発と、地域によって、それぞれが違ったものなんでしょうけれど、被災した私たちにとっては、未だ現在は平時ではなく、平時に向かって、少しでも元に戻そうと奮闘していることに違いはないのだと思っています。

そして、そこに抱える思いも。


負った傷の痛みは癒えないけれど。


人々の間には笑顔もあるし、悲壮感が漂っているわけでもありません。


きっと、日本は、戦争の後も、それから、これまであった日本各地の大きな災害の時も、こうして失ったものを取り戻すためにたゆまずがんばってきたんだろうな、と思います。


だから、きっと、ここも大丈夫。

被災した、他の地域も、きっと大丈夫。

そう感じています。


娘が、ある時、こんなことを言ったのです。

「あの、おおきなじしんがあったひね。おへやで、でんきがつかなくて、かいちゅうでんとうで、おさかなのかんづめとごはんたべたじゃん?あれさー、たのしかったなぁ。またやりたいなぁ~。」


ええ?アンタ、何言ってんの?


そうつっこんじゃいましたが。

親は、この子たちをどうやって守っていけばいいのか、不安で、不安でしょうがなかったというのに、「たのしかった」だと?


でも、ふと一歩引いて考えてみると。あの地震を保育園で経験し、怖い思いをしたであろう娘が、その夜は、恐怖に襲われなかったというのだから、私は親として、けっこうがんばったんじゃないかな?なんて。

少なくとも、親が与えられるだけの安心感ぐらいは与えることができたのかもしれない、のかな。


あの日から、子どものために、子どものために、という思いが強く、その分迷いも不安もいっぱいあったのですが、子どもが笑顔を絶やさず、不便な生活の中でも毎日を楽しく過ごしてくれていることが何よりの支えになっているのです。

子どもが不安になることなく、笑顔で過ごせるように、自分に出来ることは小さいけれど、親として出来るだけの配慮とサポートをしていきたいな、と考えています。




あの日から5ヶ月。


来年の夏は、どうなっているのだろう。

どんな風に過ごせるんだろう。


願わくば、子どもの背中に水着の跡がつくぐらい、日焼けできるような、当たり前の普通の夏が少しでも帰ってきますように。

そして、たくさんの悲しい思いをした人々の心が、今より癒されていますように。