mix sense

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芸術とは作者と観覧者の魂の触れ合いである。

「歌で人の気持ちを明るくできるようになりたい。きっと人生にくじけてる人がいっぱいいると思うから」by嗣永桃子
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最近はさよならポニーテールを聞いています。ハタチ目前にしてこんな若い人が聴きそうなモノ聞いちゃっていいのか知らん……といささか悩み悶えていますが、僕は元からこういう爽やかなものが好きでして、メロディのいいところと、コード&ビート感の上手く合わさった、稚拙と言えば稚拙。ひいてはこの人たちの指向しているであろう、若者感がとても上手に表出されています。こんなこというのは下世話ですけど、若者の仕事じゃなくて音楽や思考の熟練者ですね。
しかし、この世界観ですよ!!先は若者志向と言いましたが、もう一つ、若者すっ飛ばして児童向け?みたいな世界観も持っていて、それはこの人たちのプロモートに見るキャラクタの使用とか、そもそものコンセプト――フィクションであってフィクションでない、みたいなところに由来するんでしょうが、デフォルメ化するということによって、現実と虚構の間をうまいこと、かわいさでデコレートして僕たちに届けているのですね。僕こういうの好きだなぁ。

前回の記事がもうだいぶ前になっちゃったんだけど、野間のこと言ってたんだっけ?あれからまたかなりバタバタした日々を過ごしておりましたよ。マジで。よく生き延びてるなていう感じで……いや実は無傷じゃ済まなくて単位の問題に重傷を……それはいいけどこの間に、小説2本、安吾の「青鬼の褌を洗う女」の発表を一本して、いやあこうして言ってみると自分すげえ活動的だなあ。
小説については諸事言いたいこともあり、今回は言明をしませんが、発表について。この青鬼という中編かな?とても面白かったですよ。掘り下げれば掘り下げるほどに深みがでてくる……というか、本文から誰も思ってもみなかったほど、ザクザクと色んなことが書いてあって、読者が考えようとすればするだけ色んなことが出てくるでしょうね、非常にムツカシイ小説です。しかし、細かいことが今になっても見つかってきて、読書体験というより発見する楽しみがあります。
ま、僕は坂口安吾そんな好きじゃないのですが。
さて今僕はとても急いでいるのですがというのも時期が時期。レポート締切二日前、残りざっと6,7千字?ハイよいこのみんなは真似しないように!!正直デッドorアライブの真っただ中なのでテンション上げまくりなので更新したぜ!!よし、ちょうど10分!1
僕はなー!!!!!木曜になー!!!!!!!発表が迫ってるんだよー1!!!!!!!!!

『顔の中の赤い月』
 野間宏

てーので、最近これとか先行研究関連書誌他の野間作品読んでるんだけど、
チョー野間宏カッケエ!!!

やばい!この文章は!どの単語も諧調が取れている!げーじつ!
もう挙げるまでもないけど、『暗い絵』とかやばいですよマジ。書き出し引用するね。
「草もなく木もなく実りもなく吹きすさぶ雪風が荒涼として吹き過ぎる。はるか高い丘の辺りは雲にかくれた黒い日に焦げ、暗く輝く地平線をつけた大地のところどころに黒い漏斗型の穴がぽつりぽつりと開いている。その穴の口のあたりは生命の過度に充ちた唇のような光沢を放ち堆い土饅頭の真中に開いているその穴が、繰り返される、鈍重でみだらな触感を待ち受けて、まるで軟体動物に属する生きもののように幾つも大地に口を開けている。……」

ここ暫く僕の読んだ本の中では間違いなく最強クラス!抑えきれない書こうとする情熱がブリューゲルの絵を通して如何に自分が生きるか、なんてテーマをびしびしぶつけてきますね!!まあこの引用文じゃそこまではないかもだけど、エネルギーがあるよ、うん。
これは彼が初めて発表した小説なわけだけども、こりゃ壮絶なデビューですね。いやーかっこいい。

でまあ、僕の担当は暗い絵ではなく顔の中の赤い月なわけだけども、これを僕が選んだのは、担当の先生が用意したテキストの中で何の気なしに、ね、高2の頃だか読んでたんだけど内容覚えてないなーつってただそれだけの理由なわけだけども。
いやーよかったね。ラッキーだったね!
彼が暗い絵に次いで書いた『肉体は濡れて』も実によかったですよ!まああれは習作と言ったところだけど、若い情熱がありましたね!


しかし
だ!

発表やりたくない゚。・゚(つω✚ฺ`)。゚・。シクシク
自信ない!先生めっちゃ厳しいから2回生初めてとは言えぼかすかにやられる!資料も、当たれるだけ当たったが確実なものがない!いやもう時間がない!なのにまだレジュメも書いてないのに逃避行動としてこんなん書いてるわけだ!いやしかし資料の良しあしなんて重要じゃない!大切なのは自分の読解・考察だ!しかし注釈が不十分だ!しかし時間がない!

oh......もう他の授業出てらんねーぜマジ、籠城&資料読解だぜ。いやこんなことしてるのも遅いんだが。
ふな~~~今考えると前回の記事で他人の読書ディスったのも自分がこれに追われてるから目を逸らしたかっただけだなあと反省。今や他人を攻撃する余力すら残っておらず悄然としつつそれでも追われているのに変わりはないので逃げようとするエネルギーだけは保ち続け疑似発狂で時間稼ぎでござる。
あ、小説の方は無事書き上げマスター。筆力に及ばぬところはありながらも自分の理想とするコンセプトはちゃんと挙げて書けたので、それなりに力もぬけて、それなりのものが出来たと自負。まあ練習練習です。

はあ今日もまだ眠らずレジュメ制作。大丈夫よく考えたら今日で本文異同はできたじゃないか。少しずつ少しずつ。いやだから時間は……。
2月頃に言っていた僕の小説は結局2月中に書きあがり、9万字となった。歴代の部員の中でも(発表されたものとしては)指折りの長さだと思う。こんだけ文章を書けるのももう一種の才能でいいのでは、とさっきのブログ見て思った。
ついさっき、作り置いてそのまま2ヶ月放置、くらいのやる気のないFBに初めて投稿してみたのだけど、これ、自分の、普通のFBのつかい方と500%違うと思う。120度くらい違う方向向いてると思う。ずれてると思う。
僕は別に必要に迫られてその辺やったわけでもないし、誰にあてて書いたわけでもないしそもそも見る人がかなり限られている人たちなのでまあそれで凹んでいるとかそんなことは一切なく例えてしまえば僕の知人の集まっている場でゴミ箱に鼻かんだティッシュをシュートしようとしたら外したってなもんなわけでこの結果から僕が得るものは何かと言えばこうしてこっちになにか書くことくらい。しかし考えざるを得ないのはそのティッシュを外した原因と言うのが、偶々手首の角度が悪かったとかティッシュを丸め切れてなかったとかゴミ箱が遠かったからとかそんなことではなく、あけ広げに言って僕に問題があるとしか言いようがないことなのだうーんまるでメロンパンにはどれほどメロンが使用されているのだろうと考えてしまうほどこれは悩ましい問題だ。
本当に自慢でもなんでもないのだけど僕のFBに於ける限りなく狭い知人の輪から伺うに、あそこでは「投稿」と言う形でコミュニケーションが交わされるのだが、つまり正しい投稿の日々の集積よってFBはFBたりえるしFB使用者は――なんて呼ぶのかは知らないけれど(ふぇいすぶっかー?)――FB使用者としてコミュニケーションしている日々を送っているのだ。がしかし、である。その彼らのような形の投稿、と言うものをいざ僕は自分にさせようとみてもこれが久方ぶりの難問であり、いつと言えばこれは「はーい仲いいお友達と二人組作ってー」以来ではなかろうかと言えるくらいの難問である。え、なに情報コードが間違ってんじゃないの。見知らぬ言語に暗号化がなされているんだけどと不意のSOS送信&メールダエモンエラーである。
若しかしたら彼らも輾転反側を繰り返す苦悶の日々の内に息も絶え絶えになりつつ文字を並べエクスクラメーションマークを添付し考え抜いた構図とタイミングの成果によるスマホ撮影の写真を効果的に配置しているのかも知らないが、いやまあとにかく、僕は自分がしようとしてもさあなぜ僕はそんな思いまでしておまいらの一時のお慰みを作らなければならないのだと一人で発憤し結局彼らのような日常を完全に不特定多数向けに、体裁を整えて反応を逐一チェックしてなどとはできなかったわけだ。

ここで問題がまた出てくる。また?「また」、と言うとさっきのもやっぱりうぬは問題意識を抱えているのではないかと批判されそうであるが、違うぞこれは僕がまたと言ったのは便宜上だ。さっきのも僕は問題にしていないが、今回のもしていない。しかし問題は生まれるものでなく見つけてこそ真に意味がある。看過することでは人間いつまでも成長するとはどういうことなのか分からない。

さあ言うぞ。このブログ(久々だが!久々だが!)も不特定多数に向け、分かりやすいよう体裁を整えているではないか。(思えば最初にブログ様のものをここで始めたのはもう2年以上前…?)お前はこことあそこを単に馴染みやすさと受け取る人間によって区別して愚痴を言ってるだけではないのかと。かと。つまりはSNSの用途の違いです。もうそろそろ疲れてきたからぱっぱっと言っちゃう。
僕はそんな風にしてここもツイッターもFBも継続して使用しているし言ったらG+だって持ってる。しかしそこで現れる僕は(文章から伺える僕、使用頻度の僕)はどれも違うぞと、それはなぜよと。
これは非常に現代的なテーマと言うか、現代の表層を通して人間の社会的な姿を伺える問題だと思うのですが、面倒くさい!!もっと他の事を書こう!!(結局本題はうっちゃった)

最近は本を読んでいます。自慢じゃないがあれだ、僕は物心ついたときから本を読んでいなかった時期がほぼ無いので、半永続的に僕は本を読んでいるので、ここで言うのはつまり「最近は特に」と言うことだ。まあ、読むことに自覚的に注力しているという感じか。
いや本当にさーもうこれを愚痴りたくってたくってもう1年経っちゃいましたが、僕の周りの人なんて全然本読んでないからね。僕は日文だし、文芸サークルだしで多分「本を読んでいる」のが多めな人が周りにいるんだけど、それでも本当に読んでる人なんて少ししかいないよ。本を読むなんて、誰を読むとか名作を読むとかそういう話じゃない。とにかく冊数を重ねて見えるものをどんどん増やしていくことだよ。
だから僕はあんまり言いたくないのだ。自分がまだ全然読んでないことを知ってるし。そう、僕にはこれまでの貯金はある、しかし研究や創作にその辺のキャリアが有効かと言うとそうでなくやはりセンス云々…とここからは別の愚痴である。しかし、周りの人たちはもう少し読むことをその立場に求められている人たちだと思うので、もう少し自覚的になって欲しいですね。てへ。
どの辺に注力しているかと言えば、現代の純文作家を追うようになった。具体的に挙げると川上未映子金原ひとみポトスライムの舟綿矢りさ…。なぜか女流ばかりだけど、芥川賞を特に意識している。
最近気づいたのだけど、僕たちは古典や翻訳を完全に理解するのは不可能だって、至る所で明かされていることだと思うんだけど――それは僕たちが、それを書いたときの著者の立場を時代が違うためにどうしても理解しえないから――それなら、今の作家を本当の意味で読めるのは今だけだって。もう今読むしかない。みたいな。この今を逃せば、今を生きたという感覚は味わえないのだぞ、と。
っても読むに値しないのがゴロゴロしてるから選別はまあ無理な感じがしますねー。金原ひとみなんて、アッシュベイビー読んだけど本当に良さが分からなかったですしね。良い悪いだけじゃない選び方って言うのをしている気になりますね。これともう一つ、必要に迫られて読む、みたいのもある。課題図書じゃないけど、一冊読めば次の関門が見えてくるのだ。こういうのに追われて必読書や積読はどんどん増え段々となんの楽しみもなく生きることが多々あったりするわけですが…。
それでも面白さだけ、ただ好きと言うだけで読む本と言うのも全然いいもの。岡田淳や室生犀星なんかは本当に外れがない。僕にとって。

先にちらと触れましたが本は山積み。これを消化するだけで生きていけたらと思わずにいられないくらい、実は生活はそこそこにタスクが現れてき、ひとつ消せばまた現れて、こいつの正体はなにかな自分かな?とまた思わずにはいられず結局締め切りは迫るのに筆は進まず、ということで、また小説を書かなければいかんのだ!!なのにこんなことしてて!!
今度のはチョーポップなエンタメ。僕は読んだ人がホーフクゼットー、とまではいかずとも、口角やや上、くらいにはなる面白おかしい話を書きたいんだ。

そんなことばかりではなく、2週間後には研究発表だ!!野間宏の顔の中の赤い月だ!!これは傑作!やりがいはある!
眠たい!しかし風呂入ってもうひと頑張り!
つってもそんな簡単に自分らしさなんてだせねえよなぁ!!!!
それができれば苦労しないっつんだよな!!!かつていたどのアーティストだって、いや人類みんなアーティストになっちまうもんな!!!

というわけで、今なおその執筆を続けているわけだけども、サークル活動なわけで締切がある。その締切が1週間後に迫っている。やばい、これはヤバい。マジ。
12月からこれに載せる!!!つって書いているのにここで結局出せなかったなんてことになっちまったらどうにかなっちまうかも知れない。僕をこんなに駆り立てて、しかも部誌に固執させているのはいろいろと理由があるような気がするんだけどやっぱその第一は「自分が決めたことすら守れないようでどうする!!」みたいなことだったりする。
じゃあさっさと書けばいいのだけど、というかマジそうなんだけどそんな簡単にいかねえんだこれが(涙目)

いやマジで、この1週間はちっとも進んでいない。一日2000字とかそんなもん。これじゃ全然間に合わないのだ。
でも書くのがキツイ、マジ机に向かってもなんにも出てこないし書けなくて他の事で時間潰してく自分が嫌だしそうなってくるともう書くのが苦しみ以外の何物でもないみたいな。しかも大した内容でもないし…みたいなつД`)・゚・。・゚゚・*:.。..。.:*・゚

しかーし、やはり生き方を更新していくというのは矢張りこれほど苦しいものなのである。なにもしないでも時間は過ぎていく。それなら少しでもあがいてみようではないか。つーことで、さっき決めたんだけど、とりあえずの目標はこれである。いかん、なんだっけ、忘れた。
とりあえず、もっともっと頑張ろう!さもなければNO FUTUREというか未来は自分で作るもんだぜ!

もうすぐバイトだぜ、バイト始めたんだぜ。
ではではノシノシ
思考の更新のためにということ。表現でなく。
常に何かしら前進していようという考え方のもとに、例えなにも変わっていなくてもそれを成果だとして認識すること。
そのためにブログの形でメモができたらみたいなので今回書くことにしました。

昨日のこの辺の時間から、僕の非常に敬愛するサークルの先輩ちに招かれ色々お話聞いた。(愚痴や発憤という形式をとるときもあったけど…)

その先輩は常に「自分はもっと作品を書いていかなくちゃいけない」って考えている人で、それは本当に素晴らしいことだと思う。先輩はそれに基づいて、サークルの現状とか、自作についてとか自分の尊敬するクリエイターについてずっと不満や評価があってそれについて実行をしている人。

ちょっと前にそういうお話を聞いたとき、僕は「こんなにすごい人がこんなに頑張って駄目だったんなら僕はなにしたってもう無駄じゃないか」みたいに考え、かなり落ち込んでいたのだけど、実は今もそこから抜け出せていないのだけど、それから一つの答えを出した。
まあ妥協も含まれているとは思うけど、「自分にできることをやろう」ということ。

昨日の場にはもう一人、日本文学や哲学についてすごく真面目に取り組んでいるこれまた尊敬すべき院の先輩もいて、その人たちが小説についてこう書いていきたい、こういう思想でやっていきたいみたいに語っていて、それは自分が今まで考えていなかったやり方だったし先輩方みたいな知識は僕に共有されていないものだったから、僕は自分ならどうしたらいい?みたいに考えた。
そこで今、方針を立てた。っつーか、もしかしたら自明のことだったのかも知れないけど、僕は「自分をだしていこう」という、それ以外には無いような原点として、小説なりなんなりを書くときの指標にした。

いつからか生きているっていう実感が確かめにくく思えるようになった。大学生ならこの日本に腐るほどいる。その中で自分は飛び抜けてなにか優れた点があるでもない。自分から何かを発信した経験もないし、僕が今までにしたことって言うのは誰にでもできることだった。友達もいるけど、彼らといるとき僕は何か特別なことをしてあげられるのか?それは他の誰かがすればいいことじゃないのか?
要するに、自分って言うのは交換可能な存在だと思った。他の誰かと。
それならいてもいなくても一緒かも。きっとそうだ。僕は僕の戸籍や履歴書を見て、これはこれまでここにいた人たちのそれの中に潜り込んで、そのまま千切れ去っても誰にも気づかれないものだと。
僕はこれを悲観的に、ではなく、社会的な存在として僕が存在する意味として捉えた。どこにでもいるいない人という風に。

ただ誰より自分のことを知っている僕から言わせると、そんなことは無いと言える。他の人とはかなり似ているけど絶妙に違う道の上を、絶妙にオリジナルの感じ方をして生きてきたハズ。

そこをスタートにする。何かができるわけじゃない自分は、他でもない自分を武器にしなければ本当に0になるという意見。
そしてその自分、が確かにその他大勢の中に居るということの証明として、何らかの足跡を、痕跡を僕は作品を書くということで表し続けなければいけないいけない。それはもしかしたらこのブログでもいいのかも知れないのだけど、もっと確かに、オリジナルとして、更に(自他に)伝えるために表現という形をとる。

だから最近は、生の証明として春に出す部誌に載せるための小説を書いています。それを理由に10時間後の仏語のテストを、単位を捨ててるという現状なのですがなにか知らない衝動が一夜漬けを採用したのでもう少しだけ勉強というか暗記を僕はします。
オッスオラくら
この名前を使うのも久しぶりではないか…?まじで、さっき久々にログインというか、このページを開いた。
文章を書くそれが本当になかった。書かせるそれもなかった。なんなんですか本当に変わった。間違いなく周りの環境が変わってるのが一番大きい。いいことばかりではなくてもがいてるけど、なかなか楽しいところです。でもそれは僕になにも書き留めさせないのかな。
というより、最近はこうした表現―ブログという表現手段に頼らない別の何かを必要としていると思うようになった。ツイッターもやってて、あっちはガンガン稼働してるけどあれも実は僕のしたいことじゃない。友人・人間関係調整用が僕の思ってるより多い割合で存在してる。
まあ、停滞してるということかも知れない。

ここ最近―ブログを書かなかった2か月とか、凄い出来事が2つあった。(でもなにも書かなかった)
1つは、サークルの先輩が書いた小説に生まれて初めてのような、もの凄い衝撃を受けたこと。
無理やりにでも名付けるならそれは共感。…いややっぱ違う気がする。
もう1つは神聖かまってちゃん。偶然にもその先輩に教えてもらったんだけど、これに激はまりしている。
これは間違いなくロックだと思う。僕が考えるのは、今まで僕が聞いてきた少ない邦楽ロックの中で、彼らは、というかの子の作る音楽は日本で唯一海外コンプレックスを受けていない、「リズムの付いた歌謡曲」から脱した音楽的に純粋なロックンロールだ。
でも僕が彼らを好きなのはロックなだけじゃなくて、普通にメロディセンスのあるところとか、シンプルな構図でできてるとことか、配信に象徴される現代性を用いてるとこ。色々あるけどどの曲も本当に聞くに値する。
まあ中二と言われるのは痛いけれども。

神聖かまってちゃんを聞くけど、僕の中ではロックの定義は一ミリも動いてない。そもそもロックだからかまってちゃんに反応したのは本当。今でも僕のヒーローはトム・ペティだ。



超個人的な意見を述べるぞ!傷ついても知らん。

バッグというか荷物入れというか、とにかく普段雑多なものを持ち運ぶために持ち運ぶ入れ物があるじゃないですか。で、大学生という職業上いろーんなタイプのその入れ物を目にする訳ですね。通学かばんも統一されなくなったし、あの高校時代のサブバッグだってなかなか個性が出ないものだったし。大学に来てもう一気に開花した感があるね。学内で見かけるのはカバンつっても小物入れ見たいのじゃなく、皆教科書とかパソコンとかでかいのもあるから結構大きめのなんでも入るようなカバン。僕はこの大きいカバンって言うのが好きでしてね。なんでなんでしょうかね。もう文字列が好き。大きいカバン。なんかワクワクします。でですよ、その皆のカバンを見てて前々からふつふつと生まれ出でてきた感情が。そして夏休みを迎えるころ、その感情と言うか主張がついに明確な形をとった!それがこれ。
「カバンは頭陀袋型に限る!」

頭陀袋っていうと違うな。あのフタのとこの布とったやつ。だからスーパーの袋とか紙袋をそのまま大きくしたやつ。ちなみに僕が常日頃愛用しているカバンがこれ。
つまりもう他に何の動作も必要とされずに欲しいものがあったらパッと手を中につっこみゃあいいんですね。入れるときもしかり。とりあえず手を入れるだけ。あ、ちなみに缶バッヂついてるじゃない。あれはモーニング娘。のリーダー道重さゆみちゃんです。ちゃゆううううううううううううううう。
そんな風にしてこれはもう革新的に見た目も実用性も洗練されてて、実に気持ちがいいものなんですね。もうこのカバン大好きです。どこへ行くにもこれをひっぱってきて。適当にものを放り込んでおくのですね。

で、そんな風にこのバッグに出会ってしまっている現在の僕としては、まあ自分が気に入ってるバッグもってるから他の人と比べたくて気にしちゃうんでしょうけど、色んな人のバッグを見るわけですよ。で、まずリュックサックタイプあるじゃないですか。あれはもう嫌ね。出すにも入れるにも背負ってるもんだからいちいち振り向いて肩から外すという動作が必要なわけですね。もうめんどくさいったらありゃしない。しかも、あれ夏場に背負ってると背中とくっついてる部分で汗かいちゃって服もカバンもびっちょり濡れるのね。
で、次に頭陀袋型?これはね、一通り見てみるとなぜかあまり大型のがないのね。ホントに教科書とかプリントより大きいサイズ。なんすかね?しかしこの点からして、ドーンとでかい袋にバーンと放り込みたいタイプの僕としては失格!
あとはもう…チャックとかフタとか色々ついてる色々な奴あるけどめんどくさくなってきたのでこの辺で終了!とにかく僕はあれを肩にふぁさっとかけて毎日スタコラ歩くわけだ!僕のが一番!てね!
リードギタリストがいるバンドなのにギタボがちょっとだけリード弾く、みたいなシーンがあるじゃないですか。
前に仲井戸麗一が忌野清志郎を指して「ボーカリストの弾くギターっていいよね。俺あいつのギター好きなんだよね」みたいに言ってたんですけど、なんだか僕もちょくちょくそれ感じるんでこりゃ一体なんなのかなって。

なんかねー、すげー変なリードなんですよね。普通の運指で超簡単なフレーズ弾いてるだけなのに、なんだかそのギターの部分だけ曲中で浮いてるというか。特別に硬質な音出しててちょっとバンドの雰囲気じゃなくなってるんですよね。不思議にどのバンドのどのギタボの演奏聴いてもそう感じる。なんすかねこりゃ。別に下手糞だって訳じゃないんですよ。っていうか何年もギター触っててそいつだけが下手糞なんてあるわけない。そこらのギタリストと同じかそれ以上の腕は当たり前だけど持ってる。だからギター単体で聞くならたぶんなんにも問題はない。だけど、そこで誰が弾いてるかって言うのがやっぱり肝なんでしょうかねー。

特別に上手くもない演奏なんだけど、でもなんか心に響くというか、聞きごたえがある。なんでそうなるかっつーとそのボーカリストの演奏だからですよね。いや、自分の好きなボーカリストが弾いてるから無意識に対象化しちゃって上手く聞こえるとかではなくて、そのボーカリストのロック気質というか本質みたいのが、そこにこもっちゃってるんじゃないかと。いつも声に乗せてやってることをギターに転換させてる訳だ。
リードギタリストがやってるのは、この係が本質的に音楽的効果を狙ったものだからどうしてもその演奏の質重視なプレイになるんじゃないか。あくまで音楽的に、つか特殊効果的に。この人の先の性質はギターに宿るというより音色に宿る…プレイに宿る…のかな?ピート・タウンゼントなんかはフー解散後ソロでギタボやってたけど、どうしてもボーカルに全霊傾けてるという感じはしないものね。

ここでちょっと話変わるんだけど、トム・ペティのギタープレイみててあることに気づくのね。彼はコード弾くときも単音弾くときもつねに左手でビブラートかけてるのね。最初はあーもう歳だからギターも押さえられないのかなーと勘違いして、ちょっと悲しかったんだけど過去の映像見てもそういうことしてたからあっこれもプレイの内なんだと。そのビブラートがもんのすごい!最初に「震えちゃってる?」と勘違いしたくらいだからもう高速に弦押さえたまま横に微妙に動かしてるのね!今までそんなプレイ見たことなかったし、実際あそこまでの手首の動きはすぐには真似できないわ!ってことで、あれも彼が長年ギター弾いてきた賜物なんでしょう。そんな風にして、ボーカリストってのはその存在でロックのアイコンっぽくあるものなんですね。

え、思いつきでここまでずらっと書きましたが、近いうちブログまた書くと思うっス。なんか書きたいことも湧いてきたような気もするので。まあずっと放置しっぱだったからここ最近はほとんど誰も見てないようだけど(笑)
自炊でなにが一番嫌かって、もし失敗してどんなにまずいものができたとしても自分でしっかり食べないといけない点である。
「ん?なんだこれ味ないな」とか思いながら出来上がった煮物を見つめていてもしょうがないから、一人で黙ってゴソゴソ食うしかないのである。この寂寥感はちょっとない。
いや煮物とか今までの例ならまだいい、まだ普通に食えた。いけないのは今日作ってしまったものだ。今日は、買い物もしてこなかったし何食やいいべと思ってうちの食糧漁ってたらバナナが思いのほか早く傷んできてて3本もあるのにどーすんだこれ、ということで、一本はその場でもさもさ食い、残りの2本はマッシュポテトに混ぜることにした。違うんだよなんか色とか似てるしいけるかと思ったんだよ。その場でそのままバナナ3本食いも芸がないじゃないか。
そこで完成したのだ。バナナ入りマッシュポテト、いや分量的に正確に言うならマッシュバナナか。イモ1コに対して2本入りですからね。
それが例えようもないくらいゲロマズだった。いやマジで。食物という気がしなかった。なんか子供のころの嫌な思い出とか悪夢とか固形にして食わされてるような味がした。
見た目も最悪だった。原産地で冷凍して航空輸送して運ばれてきた小奇麗なゲロみたいだった。畜生でさえあんなものを餌として認めないと思う。前足で払いのけて15,6mは吹っ飛ばすと思う。
我慢して最初の内はいってみたけどいかんせん量が多すぎた。半分くらい減らしたところで「今これを全部食っちまったらただでは済むまい」と思うようになった。しょうがないから廃棄することにした。すんませんバナナさん。いやでももうバナナなんてぜってえ買わねえぞ。思い出すだけで腹のあたりがムカついてきた。って言うかもうバナナ怖い。見たくもない誰か助けてけろ。

左様にして自炊のリスクって言うのは恐ろしいものよ。下手に買い込んじゃいけないね、つかジャガイモって案外使い道ねえんだよな。

以上の一件で不機嫌だったのだが、追い打ちをかけるように机に脚ぶつけた。こんちくしょー。