中嶋涼子さんの炎上について私見を述べます

この事件について知らない人のために概略をいいます

イオンシネマで車椅子にて特別席を利用したい彼女と

この劇場の席は段差もあるし、そのために人員をいつも用意するのは難しい

そういった理由で次回からの利用をイオン側は断った

それを酷い仕打ちと彼女はSNSで批判した

 

まあ、賛否両論ありますけど

こういう問題を考えるきっかけになって

彼女の訴えはまんざら無駄ではなかったのだろう

ただ、こういう訴えは

不平不満をぶちまけるだけでは他人の同情は得られない

人々に好意的な印象を与えないと訴えている意味がない

私自身は車椅子生活をしたことがないので

迂闊な意見は差し控えたいと思うのだが

一般の人間としてその感覚の違いにちょっと驚いた

 

それで私が不快に感じた部分の話をしたい

もともとイオンシネマには車椅子のまま見れる専用席はある

彼女の望んだシートはそれとは別の足の延ばせるリクライニングシートだった

別にそれを身障者の方が望んだからと言って傲慢だとは私は思わない

誰だってお金に余裕があってゆったりとしたい気分であれば

そういう選択をして構わないと思う

ただ問題なのは彼女がそういう選択をするためには

世話をするための人員と通路を車椅子が遮断するという不都合が起きるのだ

それでもイオン側は何度かは協力的に振る舞っていたんだと思う

余り回数が重なったので、ほかの場所に行かれてはどうですか?との提案だった

 

この話を一般の社会に振り分けて考えたらどうだろう?

 

誰に限らず、この社会では何もかもが自分の望んだとおりに動くわけではない

思い通りにならないことや理不尽な扱いにも我慢しながら生活している

我々は社会の中でお互いを支え合うことでそれらに耐えている

ただし、それに迷惑が掛かっていると感じたら、支えてもらう事にも遠慮が生まれる

こういうことはお互いの謙虚さの中で初めて成り立つ支え合いなのだ

なのに何故、彼女は

ほかの手立てを考えますとか、車椅子席で我慢しようとはならないのだろうか

イオン側の対応に深い悲しみを覚えた彼女の気持ちは私にはわからない

障害者として特別扱いをしてもらう権利が自分にはあると主張したいのか

イオン側も彼女の立場を理解したうえで、現状の対応が難しいと話したのだと思う

これは支え合って生きる対等の人間同士の会話じゃないのか

 

虐げられてきたもの、差別されてきたものを

特別待遇を与えようとする世の風潮もおかしい

普通でいいし、お互いさまで生きれるのが望ましい

私は自分も含めてどんな人も特別扱いするなんて嫌だ

常に対等でありたい

お互いがお互いの立場を理解し尊重し合う世の中でいてほしい

暖かい善意の手を差し伸べるのも人間なら

冷たいと感じる他人の眼にじっと我慢をするのも人間社会

我々は一人の例外もなくそういう社会で生きている

身障者と健常者の間にも相互理解と尊重は必要だが

特別扱いなど必要だとは私は思わない

誰かを特別に優遇することで、誰かが被害を被ることが平等な社会だとは思えない

そういうことで特別扱いという差別を作り出してしまうことのほうがよっぽど怖い

 

彼女のSNSのタイトル(車椅子ですが、何かぁ?)のアンサーとして

敢えて(だから何?)と答えさせて頂きました

誰も特別扱いはしない

それが私のスタンスですが、何かぁ?