世間とは基準の違うところで生きて来たもので

人生の中で数々の誤解を受けてきた

そんな自分の半生を振り返ってみると

今更何も変えるつもりはないんだけど、自分なりに反省はある

まず、私の価値基準は他人には理解してもらえないだろうと

これまで一切の説明をしてこなかった

たとえ理解してもらえなくとも

言葉に出して言わないと、人はどんどん離れてゆくもんだ

それを自分では孤高な生き方と勘違いして

どこかで他人を突き放す傾向になってしまっていた

 

今日はそんな反省の元

私が他人を好きになったり、嫌いになる基準をお話ししてみたい

そこで嫌いなものの代表として前にも話したことがあるんだけど、

(大人が嫌い)

これをちゃんと説明しとかないと、いい歳して私はただの痛い奴になる(笑)

ここでいう大人とは、常識や世間の目を気にしながら生きている人達のことだ

何故、それが嫌いな理由なのかというと

そこに自分の考え方や哲学はなくて、自分で判断することを放棄しているからだ

私からすればあなたには自我はないのかと疑ってしまう

そういう人に限って私の生き方に対して誹謗中傷をする

(それは常識と違うでしょうとか、)

(他人迷惑でしょうとか)

(自分勝手ですねとかね)

 

そんな無責任な奴らの言う事は無視して生きて来たんですけど

多数派はどちらかというと常識を盾にする人達なんですね

結果、私はどんどん世間から外れたアウトローの烙印を押されてゆくわけです

なんかね、何も真剣に考えない奴らに、

自分はどう生きたらいいんだと悩んできたことを否定されてるんです

そりゃ、確かに間違い失敗を繰り返してきましたよ

そんなに立派な人生を歩んできたわけじゃない

でも、私は私なりに悩んで苦しんで自分の人生を選択してきたんです

私の嫌いな大人達を真似て

常識や道徳を基準に世間に弾かれないように生きたらどんなに楽でしょう

こんなに後悔だらけの一生を送らなくて済んだと思う

 

でも、それは自分の人生を手放すことのように思えたんです

人生を生きてゆく中で常識や道徳に頼って

判断や選択を自分の考えで決めないなんて己に対して情けなくないですか?

私はそんな安易な手段で大人になんてなりたくなかった

それが安全で失敗しない選択だとしても、嫌だったのです

だから今も声を大にして言うけど

私は訳知り顔で落ち着いた雰囲気を出している大人が嫌いです

私自身はおどおどと迷ったり苦しんだりして一生を終えるつもりでいます

一生涯嫌いな大人に対して、アンチ大人の姿勢を貫き通します

失敗や間違いを冒して後悔しながら一生を終えることこそ

自分が自分であることの証だと思えるんです

 

大人達よ!

何を悟った顔で生きているんだ

それは人生の中で悩んで苦しんで手に入れたものだったのかい?

借り物の哲学や正義は振りかざしたとて偽物が本物になるわけじゃない

いい加減そういうものに頼るのは辞めようよ

自分の生き方を他人の物差しで測るなんて愚かなことだ

世間の大人と呼ばれる人がしていても、私はまっぴらごめん被る

私も人に負けず劣らず後悔だらけの人生だったけど

誰のせいでもない全部自分の責任だと云うことが出来る

何にも頼らず自分で考えて、やった結果だからだ

 

私の中では愚かな行いにも好き嫌いがちゃんとある

困ったことに、自分の愚かさはそんなに嫌じゃない(笑)

少なくとも、世間の大人がするように

愚かさを隠して澄まし顔では生きてこなかった

愚かであることは人間の証なのに

それをどっかに隠すことが大人になる事なら私は嫌だ

何故なら愚かであることを隠す事こそが、本当の愚かなのである

人間であることを否定して

常識人を装うような奴らに人生の喜びなんて分るはずがないじゃないか!

 

自分の人生を

何かに依存して生きようなんて虫が良すぎやしないかい?