何日か前に書きました

平和を願い戦争地に千羽鶴を送る行為ってどうなの?

この時の私の意見を誤解している人がいるので

改めて書き足したいと思います

 

平和への願いを込めて

千羽鶴を折る行為を非難しているんじゃないんです

それを相手に送りつける事はどうなの?と問題提起したい

私の嫌いな言葉に 

偽善・おためごかし・あざとい などがあります

今回、送る行為にそういうものを感じたから

なんかこの千羽鶴感覚が嫌だなと思ったのです

 

千羽鶴が日本人の平和の祈りの象徴になることは理解します

それでは皆さんにお聞きしますが

(祈り)の定義って何でしょう?

私は、祈りって 心の内にある静かなる願い だと思っています

相手に対して、私はあなたの為に祈ってますよって伝える事が

私には、恩着せがましい行為に映ったのです

これが、励ましの言葉や応援の言葉を送ったなら問題はなかった

たとえそれがウクライナの人々に伝わらなくともです

 

心からの祈りは相手に伝えるものじゃなく

自分の中でずっと持ち続けることで影響を持つものだと私は思う

それを相手にあからさまにドンとぶつけることは

少なくとも、(祈り)ではない

そんなことをするぐらいなら、鶴に思ひを託さずに、

戦争反対でも平和支持とでも言葉で言えばよい

鶴に形を変える事で、ちゃんとした意思表示からの逃げ のように感じてしまう

千羽鶴に平和への祈りを託すって

日本人らしい美しい行為だとは思うが

その美しさは、あくまでも心の奥底に秘めたものでなければいけない

高校野球の応援や、病気回復の祈願とは

まったく意味合いが違う話なのだ

変な宗教じゃあるまいし、

あなたの幸せを祈ってますなんて軽々しく言うもんじゃない

そう思うぐらいなら、現実的な力を貸してあげればよい

当事者でもない人間が、ただの意思表示だけなら、しない方が良い

その思いが強ければ強いほど

祈りとは自分の中だけで完結させなければいけない

平和を願う思いを相手に押し付けるとき

何か違うものになっているような気がするのです

それが偽善やおためごかしやあざとさに見えるような気がして

私は嫌だったのです

 

偽善やおためごかしやあざとさが通じるのは

お花畑の平和な国の中だけの出来事なのです