過去、宮沢賢治のことをブログにさせてもらった

私は『永訣の朝』を詩の世界の最高峰だと思っている

これほど、心を震わされた詩に出会ったことはない

何度も何度も読んできたのに

またしても泣いてしまった

石橋玲さんの朗読があまりにお上手過ぎたのだ

東北訛りで語るこの詩の凄みに再び心を抉られた

 

 

朗読って自分のリズムで作る自分だけのオリジナルの時間なのだから

自分以外の人の朗読を聞く必要なんかないとずっと思っていた

自分にはそれぐらい自分を納得させる詩への造詣があると信じていた

でも独りよがりってやっぱりだめですね

文学を深く愛し理解している人には、ちゃんとした基準の朗読リズムがある

発する言葉の中に他人の感情を揺さぶる手法があるのですね

 

永訣の朝

 

 

 

何度も言ってきたことだけど

宮沢賢治の童話を素晴らしいとは思うが

『永訣の朝』に感じた、魂が震えるというそれほどの感動はない

ましてやあの有名な詩『雨にも負けず』さえもしかり

 

限りなく悲しく切ないこの美しい詩のみが

他のどんな詩人のうたとも違うのです

 

詩人が一生懸命に言葉を選ぶのに対して

賢治はどこまでもまっすぐな魂のままこれを詩にした

美しい魂のみがこの詩にはいっぱい詰まっている

 

 

前回私がこの詩のことについて書いたのは

もう2年以上も前になりますか

高村光太郎が好きだった私が

何故、この『永訣の朝』に心を奪われたかということを書きました

愛妻に対する光太郎の眼が終始詩人の眼であったのに対して

賢治は兄の愛情をもって死にゆく妹を描いている

そこに人間としての魂を感じたのだ

その時の私のブログの一文を今一度張り付けておきます

 

 

 

賢治も光太郎と同じように愛する者の死を

詩集として世に出しました

でも賢治のそれを見る目は詩人ではなく、兄以外の何ものでもありません

詩集『春と修羅』が私に教えてくれたことは

詩人は詩人の眼で世界を見てはいけないという事です

それは熱い人間の眼でなければならない

でなければ全部嘘になってしまいます

 

詩は詩人が書くものではありません

ましてや技術や理性が書くものではありません

心を揺さぶる本当の詩は、人の魂で書くものです

賢治の詩を読むたびに思います

 

人間の魂とはこれほど切なく美しいものなのかと・・・

 

 

 

 

 

 

私にとって『永訣の朝』は詩ではなく

賢治のそのものだったのです