何度も言ってきたが、私はアンチ大人だ
60歳を過ぎた男がアンチ大人とは
世間の笑い種だと思う
駄々っ子の拗ねたヒネクレもの
他人からは恥ずかしい姿にしか映らないだろう
今でも大人と呼ばれる人が大嫌いだ
前にブログでお話したことがあるが、
そんな嫌いなものになるくらいなら
一生無礼者の子供のままでいると決めている
そのことがどんなに苦しい事か
皆さんには分からないでしょう
そのことを話し出したら,受けた誹謗中傷と
愚痴と惨めさで死んでしまいたくなる
大人の社会で無礼者の子供を名乗ることは
世間知らずのバカ者扱いされるらしい
でも、
やめない
どう思われても構うもんか
私は私でしかないし
それが生きてきて、生きてゆく私であることの証明だ
※(テーマ大人が嫌い)を参照して頂けたら幸いです
今日お話ししたいのはそのことじゃなく
昔から若者は大人から
『今どきの若いもんは・・・』
という常套句で様々の批判を受けてきた
それって本当に正しい意見なんだろうか?
この事について検討してみたい
私は自分が若者だった頃から
その矢面に晒されるタイプの人間だった
確かに危うく不確かな行動をしていたんだろう
何を考えているか分らんというような
大人達に理解できないことを考えていたのだろう
『今どきの若いものは・・・』
時代がゆっくりした流れだった時
物事の価値観は変動することはなかった
価値観の不確かな若者が批判されるのは仕方なかった
新しい価値観を持ち込むこと自体が難しい時代だった
だけど、それは公平な考えじゃないと思う
長い歴史の中で作られてきた考えは
理論的にも正しく、普遍的意見だ
世間の価値観に照らせば正論には間違いない
でも、公平じゃない
結論だけを先に言うと、
何故、公平じゃないのか
理由は
時代を作るのは、大人達ではなく
今どきの若者だからだ
そしてもうひとつ
ゆっくりだろうが急流だろうが
時代は常に流れているからだ
固定された価値観をもって今を批判するのは簡単なことだ
流動している世の中で価値観を
自分だけのものにしてゆくことの困難に比べれば
はるかに簡単だ
今、時代は急激な流れの中にある
考えてみてほしい
固定した過去が変動する未来を批判することは
節理として公平じゃない
『時代は変わる』をボブディランが
唄ったのは何十年も前の話だ
批判されていたあなたたちが、批判する側に回る
自分で作った価値観を持たぬものが
常識を振りかざして若者の考えや価値観を否定する
間違いや失敗や戸惑いを高見から嗤う
私の時代もそうだった
誰とも違う個性を求めることは拒否された
悟り顔の大人たちが拙い私の姿を嗤って
世間の価値観を押し付けようとした
大人という小さな檻に押し込めようとしていた
不自由な自分達の境遇を誤魔化そうと
嘘を並べた
『誰でも檻に入るべきだと・・・』
かつて私を置いて檻に入った人たちよ
『今どきの若い者は・・・』と批判されたあなたが
今度は同じ言葉で新しい時代を批判しますか
まやかしの言葉を嫌った人間が
代々受け継がれてきた嘘をつきますか
誰も知らなくとも
あなた自身はよく知っているはずだ
それを狡いというんですよ
それを卑怯というんですよ
それが大人になるということなら
大人になんかならない
心に嘘をついて暮さなければいけないほど
人の誹謗中傷はそんなに怖いですか
あなたは大人のふりをして
不自由な檻を監視をする卑怯者に成り下がるおつもりか
私はそんなところに近づくつもりもない
ここに『時代は変わる』の一説を
私訳で載せておく
【大人という人々よ!
自分が理解できないことを批判するな
どうなるかなんて誰にも分らない
望もうが望むまいが 時代は変わってゆく】