遠近法で描く中国 -2nd Season- -23ページ目

遠近法で描く中国 -2nd Season-

片手にピストル 心に花束 唇に火の酒 背中に人生を。 

副題:いつでも奇跡はそこにある
著者:オグ・マンディーノ
訳者:牧野・M・美枝
出版:ダイヤモンド社 / 2005年 / 単行本
ジャンル:宗教、小説

日本での邦訳の出版は2005年ですが、本国米国では1980年に発表された作品です。
このブログでも紹介した3作品だけ抜き出すと、

The Greatests Salesman in the World 『地上最強の商人』1968年
The Christ Commission『キリスト・コミッション』1980年
The twelfth angel 『十二番目の天使』1993年 (Wikipedia より抜粋)

このような順序になっています。すなわちマンディーノ氏の初期~中期の作品となるのです。
この本を手に取ったのは偶然ですが、潜在意識として、キリスト教に関するものを求めていたことは認めます。
私個人としては、聖書にはほとんど触れたこともなく、キリスト教に関しては、極々一般的な出来事を知るのみと言ってよいでしょう。
それでも、この作品は本国アメリカで一体どのように受け入れられたのか、タブーではないのかと、疑問ばかりが胸を襲いました。

これは小説です。しかもオグ・マンディーノ氏が手掛けた自己啓発的な作品とは一線を画すものです。
聖書の内容を多少知らないと読み辛いかもしれませんが、それでも多分、読み進めることはできるでしょう。
20世紀の著名なミステリー作家が、イエス・キリストの復活の謎に迫るというテーマです。
ともかく、なまじ評価することはできない作品です。
謎は、解けるのか。その答えはあなたの手で紐解いてください。

<目次>

1 危険な告白
2 夢のはじまり
3 エルサレム
4 大神殿へ
5 弟ヤコブ
6 マタイと雷鳴の子ヤコブ
7 ベタニアの姉妹と生き返ったラザロ
8 ペトロ
9 大祭司カイアファ
10 総督ピラトの罠
11 ヨハネ
12 マグダラのマリアとマルコ
13 ゴルゴダの丘とニコデモの秘密の庭
14 ヤコブとの約束
15 真実
16 死と奇跡と幸運と

訳者あとがき

キリスト・コミッション―いつでも奇跡はそこにある/オグ マンディーノ

¥1,890
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副題:ノーブレス・オブリージュとは
著者:李登輝
出版:文唱堂 / 2003年 / 単行本
ジャンル:評論、解題書

気になった個所を、ご紹介します。

<第二部 『武士道』を読む>
 <第一章 道徳体系としての武士道>

「すなわち、物理的かつ現実的な権力を維持するための過去の「武士道」ではなく、精神的かつ理想的な生き方を追求するための道徳規範として、未来永劫に通じる「武士道」の価値を再発見することができる人間に成長し、変容していたのです。」(117頁)

「仏教が武士道に与えた冷静、沈着な心のありようは、物質主義にとらわれている現在の日本に最も欠けていることの一つといえましょう。」(122頁)

 <第二章 武士道の淵源>

「ある剣道の達人(註:柳生但馬守)がその門弟に業の極意を教え終わった時、これに告げて言った。「これ以上の事は余の指南の及ぶところではなく、禅の教えに譲らねばならない」と」(122頁 / 『武士道』より引用)

「つまり、どの宗教に限らず、「絶対」を追求する限りにおいて、人間はそれぞれの環境に基づく内的必然性を通して、自己の意識を深化するものである、ということなのです。「絶対との調和」とは、自己の意識を深化する、すなわち深く考え、寛く感じる心を持つということです。」(125頁)

「私はクリスチャンですが、日本人として戦死した兄が祀られている靖国神社には、当然参拝したいという気持ちをもってきました。」(132頁)

「すなわち、「武士道」の淵源の一つとして、儒教の影響は否定できないが、それ以前から営々として積み上げられてきた大和民族固有の歴史や伝統、哲学、理念、風俗、習慣などがあったからこそ、世界に誇るべきこの日本精神の精髄が結晶したのだ、と言っているのです。」(138頁)

「キリスト教は宗教であり、人間の魂に関することを神との契約において結びつけるものです。これに対して儒教は、はっきり言うと宗教ではなく、道徳的・世俗的な人間関係を基準としたものです。」(140頁)

 <第四章 勇・敢為堅忍の精神>

「勇気は、義のために行われるのでなければ、徳の中に数えられるにほとんど値しない。」(160頁 / 『武士道』より引用)

「昭和天皇もまた「武士道」を最もよく体現されていた存在だと思います。そうでなければ、あのマッカーサーを立ちどころに心服させることなど到底不可能であったでしょう。」(163頁)

「プラトンも、「恐るべきものと恐るべからずものとを識別すること、それが勇気だ」と喝破しているではないですか。「武士道」は勇気などと短絡して、何でもかんでも遮二無二、猪突猛進すればいいというものではありません。」(164頁)

「新渡戸稲造先生は、「義」と「勇」と「仁」と「忠」と「誠」とを不即不離のものとして、渾然一体となった「武士道」精神の根幹をなすものとして説いているのです。」(169頁)

 <第五章 仁・惻隠の心>

「そして、「仁」が人を生み、人が「仁」を生む。すなわち、国民や国家の真のリーダーというのは時代の要請によって輩出してくるものであり、その人に「仁」がなければ必然的に消えていかざるを得ないのです。」(183頁)

 <第六章 礼>

「「茶の湯」すなわち茶道は、単なる喫茶ではなく、ある種の規範(茶礼)に基づく喫茶行為の総体を言います。」(197頁)

「つまり「茶道」は、喫茶という日常的行為をある種の形式に仕立てた生活芸術であり、最も典型的な生活文化なのです。換言すれば、「茶の湯」には日常性と非日常性・虚構性とが共存し、そのため時々の生活様式に規制され、絶えず変容する要素と、時代を超える抽象化された美的世界とがあるといえるでしょう。」(198頁)

 <第七章 誠>

「私は、「誠」という徳目を、「仁」よりもさらに大切なものとして、上位に置いています。」(200頁)

「本当の愛とは何かというと、心を尽くして、公のために尽くす気持ちです。「博愛」であって個人肉欲のラブに陥らないことが大切なのですが、これは人間としてはしようがない部分でもあるのです。しようがないけれども、この一面から、いかに全体的な愛に昇華させるかということが、非常に大切だと思うのです。」(206頁)

 <第八章 名誉>

「この「名誉」というのは、少年のころから体に叩き込まれるべき最初の徳であります。」(212頁)

「人間が「人格」を持つようになってから最初に意識するようになるのは、「羞恥心」とか「名誉」とかいう感覚です。しかし、いま大問題になっている日本の少年犯罪者やその追随者たちには、ほとんどそれが見られません。大人も含めて、社会全体が「破廉恥」になってしまっているからではないでしょうか。」(213頁)

「「武士道」に見られる恥の心は、個人の生存をも脅かすものです。つまり、名誉とは生死をもって守ることであるのです。しかし、中国で言ういわゆる「恥の文化」というのは、全く表面的な面子ばかりを重んじています。スローガンだけですべてが終わってしまうのです。」(214頁)

「最近の母親は、「恥ずかしい」ということよりも、「他人に叱られる」とか、「お巡りさんに捕まる」とか、そういうことのほうに関心があるようです。要するに、自律的ではなく、他律的な方向に偏りすぎているのです。」(217頁)

 <第十章 武士の教育および訓練>

「僧侶の仕事にせよ、教師の仕事にせよ、霊的の勤労は金銀をもって支払われるべきではなかった。価値がないからではない、評価しえざるが故であった。」(243頁 / 『武士道』からの引用)

 <第十二章 自殺および復仇の制度>

「すでに読者は、切腹が単なる自殺の方法ではなかったことを領解させられたであろう。それは、法律上ならびに礼法上の制度であった。」(261頁 / 『武士道』より引用)

 <第十三章 刀・武士の魂>

「これは、戦後日本で一時はやった「非武装中立論」のような根拠のない安全保障の考え方とは一八〇度違った、平和論でもあるのです。すなわち、武器を持てる者こそ、自重自戒しながらその使用を控えなければならないが、いざひとたび事あれば対抗する用意はあるという、「備えあれば憂いなし」の考え方です。」(267頁)

 <第十四章 婦人の教育および地位>

「「教育」というのは、結局、『武士道』にも出てくるように、精神的な価値観や肉体的な価値観を尺度にして、ただ単純に「平等」かどうかなどと議論するものではなく、もっと深く個々の人間の性格や能力の差異(決して差別ではない)に着目して、複合かつ多面的に判断していくべきものではないか、と思います。」(276頁)

 <第十七章 武士道の将来>

「私はこのような「日本精神」、すなわち、「義」を重んじ、「誠」をもって、率先垂範、実践躬行するという「大和魂」の精髄がいまなお脈々として「武士道」精神の中に生き残っていると信じ切っているからこそ、日本および日本人を愛し、尊敬しているのです。」(289頁)

「最後に、もう一度繰り返して申し上げておきたい。日本人よ自信を持て、日本人よ「武士道」を忘れるな、と。」(291頁)


以上を以て、本書のご紹介を終えます。
副題:ノーブレス・オブリージュとは
著者:李登輝
出版:文唱堂 / 2003年 / 単行本
ジャンル:評論、解題書

気になった個所を、ご紹介します。

<はじめに>

「私自身が日本の教育の中で豊富な知育と徳育を授けられ、それを通して知識や知恵に目覚め、「人間いかに生くべきか」という根本的な哲学や理念を身につけてきたからこそ、なおのこと、この人類史的危局の中において必要とされている「日本の心」の大切さを、思い起こさずにはいられないのです。」(8頁)

「しかるに、まことに残念なことは、一九四五年(昭和二十年)八月十五日以降の日本においては、そのような「大和魂」や「武士道」といった、日本・日本人特有の指導理念や道徳規範が、根底から否定され、足蹴にされ続けてきたのです。」(9頁)

<第一部 日本の教育と私>
 <第一章 世界に目を開いてくれた先哲の教え>

「最近の日本では、大学ですら、「一般教養(リベラル・アーツ)」を軽視する風潮を露骨に見せはじめていますが、フィジカル(物質的で具象的)な面ばかりを重視するようになれば、必然的にメタフィジカル(精神的で抽象概念を重んじた)な面が疎かになり、人間として最も大事な青少年時代に、内面的な自己を涵養する機会を失ってしまう、と非常に憂慮しているのです。」(19頁)

「そのような意味では、私ばかりではなく、古き良き日の日本の「伝統」に触れることのできた世代は、大なり小なり、「台湾の今があるのは日本のおかげ」と感謝しているのです。」(20頁)

「「武士道」などというと、とかく封建時代の亡霊のように言う人が多いようですが、新渡戸先生が精魂を込めて書き上げたこの本を本当に真摯に精読すれば、そのような受け止め方がいかに皮相で浅薄なものか、すぐにわかるでしょう。」(20頁)

「「公義」とはすなわち公の義、つまり「ジャスティス」(Justice)のことです。目下のところ、日本人の中には、このジャスティスに対する真っ当な感覚を見失ったような人々が多くなってきているようにも思います。」(25頁)

「私が大陸の中国人のことをあまり評価しない裏には、同じ「孔孟の書」に接しながら、武士道に培われた日本人のこのような考え方、すなわち「実践躬行」の精神が希薄だからなのです。まさに「論語読みの論語知らず」で、口先ばかり。そして平気で嘘をつく。」(54頁)

「私は一度たりとも「統一には絶対反対する」などど言ったことはありません。中国の指導者が嘘をつくのをやめ、本当に自由で民主主義的な体制をつくるようになれば、いつでも統一に応じる用意がある、と言い続けてきたのです。」(56頁)

 <第二章 新渡戸稲造との出会い>

「台湾の産業、とりわけ製糖業振興の最大の功労者は、『糖業改良意見書』提案者の新渡戸稲造先生と、これを受け入れた当時の台湾総統府・児玉源太郎総督、および後藤新平民政局長官だったといえましょう。」(74頁)

「稲造は、キリスト教の言葉である英語を学ぶにつれて、ごく自然にキリスト教にも接近していきました。英語の文献を理解するためには、どうしても西洋文化の基盤を形づくっているキリスト教をしらなければならなかったのです。」(82頁)

「しかし、ここが、「精神教育」の素晴らしいところで、クラーク博士の謦咳(けいがい)に接することなど全くなかったにもかかわらず、その高貴な魂と生き方は、第一期十六名の先輩たちを通じて見事にバトンタッチされ、やがて『武士道』や『代表的日本人』などという素晴らしいメッセージが、日本から世界に向けて発信される原動力になったのです。」(94頁)
→ウィリアム・スミス・クラーク:札幌農学校の初代教頭
→内村鑑三著『代表的日本人』(1908年)

第二部の紹介は、次回に持ち越します。