"どうしても嫌だ"と言う気持ちを自分に許可する。
私は定期的、いや、不定期に特に身近な人に対して感じてしまう感情があります。
それによって自分が生きづらくなっていることはわかるんです。
その感情は"嫌なものは嫌"。
言葉にしてしまうと、なんて幼稚な感情。
それがあまりに幼稚であり、歓迎される感情ではない事はわかる。
書いていて恥ずかしい。
でもこれから説明するからぜひ読んで頂きたい。
どんなに頭を整理しても、(何度自分を変えようとしてきたことか!)
人は認め合うべきで、敬意を抱くべきですよね。
〜すべきって考え方、好きじゃないんだけどな。
言い方を変えると。
人は認め合い、敬意をいだき合うことが美しいと思います。
つまり私の持っている感情は美しくないものの部類。
これらの感情の対象は私の家族である人。
母親、父親、祖父母、そして夫。
なんということでしょう。もっとも愛すべき人たち。
彼らの私への強い愛情は愛着と感じ、私に強く向かっている。
この感じるベクトルは何なんだろう。
私の自意識過剰、と仮に呼びましょうか。
私はとことん自由でいたい?

間違いなく私は彼らに守られ愛され大切にされてきた。されている。
彼らが私から自由でないこと。
少なからず、私に敬意を見せ私を全面に認めてくる。
それは私にとって時にとても不自由だ。
ここで誤解されやすい私の自由とはもちろん、精神的な自由であり、自由恋愛等のことを指しているわけではない。
私の人生の基盤となるものはいつも家族であって、自由恋愛を求めたことも、これから求めることもない位に、私の脳は最近はいつも冷静で理性的。
疑われそうなので、言い訳しておくと、私の情熱の部分や愛の部分は全く持って別のジャンルにあります。(二次元とかそういうことではなく)
恋愛や性的なことに興味がもともと薄い。
そういう人類もいる。多分、人類。
だから一般的なルッキズムを持ち上げていることや、恋愛や下ネタで笑ったり、楽しんでいるテレビ番組や話題をしている輪に入れなくて、否、入らなくて、心地よい1人の静かな時間を好んだりします。
この自分の心地よさを選ぶ選択が中学生の時に、"協調性がない"と言われ、指摘されたことがあります。
この話もとってもとっても面白いので、また別の話題として書きます。
とにかく私が長年悩むことは、私を愛し守ろうとする人たちに対して、私はいつも同じ愛情を返し、常に感謝し敬意を抱く"べき"だと思っているみたい。
でもそう。
実際に周りにもその言葉はたくさん発生していた。
自分自身でも感謝す"べき"状況だと思っている。
ここまで書いて私はこの"べき"の呪いにかかっていると気づく。
このいかにも自己中で自意識過剰な思考が、自分から家族を守る事に繋がっていきます。
その続きはnoteで❤️

