「はせがわくんきらいや」


著者 長谷川集平

 

 

高度成長期の1955年。
森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者である長谷川さん自身が描かれた、衝撃的な絵本をご存知ですか?

 

 

小学4年生か5年生の時の国語か道徳の授業で感想を書くことがあり、その時に衝撃を受けた作品です。

 

 

授業では森永ヒ素ミルク中毒事件や、それによる赤ちゃんに残った障害について同時に学んだこともあり(それどころか命に関わる赤ちゃんも多くいたそうです)長谷川さんの「強い怒り」を子どもながらに感じたような気がします。

 

 

それは、とある一面が強く描かれていたからです。

 

 

どうしようもできない自分への苛立ち。
社会への怒り。

事件への怒り。

 

そんな印象でした。

 



それから30年経ちました。
この絵本の内容を忘れたことはありませんでしたが、印象に強く訴えかけてくる人物が変わりました。

 

 

「はせがわくんなんかきらいや」と最後まで言い続けているクラスメイトの男の子です。


長谷川くんのことが大っ嫌いな彼は、いつも長谷川くんを気にかけ、守ります。



彼は当時、「心の優しい友達」。


そうした敬意ある眼差しで見られる存在でした。

 

 

もちろんそうなんです。
けれど30年の時を経て、彼の立場から見る世界を知り、泣きそうになりました。


いや、泣かせてください。

 

 

社会的弱者は社会に守られる。
これが「社会」の存在する意味の1つですよね。


だから公平に生きることが出来るんです。


人に守ってもらい、優しくしてもらうことで、その思いやりが循環する。



守る立場でいられるということがまず幸せだという真理を賢い皆様は知っているだけで、まだ未熟な時分に、初めから人のケアをする立場でしか生き続けていない人を、社会は見えているのかな?
そう感じてしまったんですね。

 


・障害のある人が初めから生活の中にいた。
・子どもの頃からそうだった。(自分もまだ子どもなのに)
・初めての子育てで小さな命を守るプレッシャーの中、休むことができない、褒められることもない。
案外、こんな状況にも似ているかも。
 

 

とにかく、長谷川くんのクラスメイトだった彼も"小学生"で成長を見守られる立場であったのは確か。

 

子どもらしさを多少捨てざるを得なかった彼は「かっこよく、しっかりした」大人にとっての理想の子どもでしょう。




彼は最後までそれに呑まれず、ちゃんと子どもでいるために抗うんです。「はせがわくんなんかだいだいだいだいだいきらいや」

 

えらい。えらいよ。あんた。


それに気づいたとき、ポロリと泣きました。

 



誰かこの子を抱きしめましょう。

体が大きく、健康で元気なその男の子を、それでも守って抱きしめましょう。



あなたの隣にもいませんか?


この社会で「大人」役をやり続けている、かつての子どもを、今の子どもが。





あなたの心で、抱きしめてください。


気づいてあげて、眼差しを、向けてみて。

 

大人でいなくちゃいけなくても、あなたにも気づいているよって。

 

わかっているよって。

 

 


すべての大人っぽい子どもは子どもです。
そうでしかないのです。

長く来る大人時代に向け、子ども時代に子どもである事は、とても大切なのです。

 


 

しかしこれは悲しさだけではなく、彼を強制的に成長させ、彼のような立場でしか持つことのできない「出来る人」になれるということでもあります。

 

 

ただね、どんなにしっかりしていても、優秀でも、いい子でもね、小学生ってまだ子どもだし、そうじゃなくても子どものカケラは持っているんですよね。

 

 

 

思春期にその子どもらしさが邪魔でどう扱っていいか自分でもわからなくなってしまうのだけれど、あなたにもちゃんと気づいてるよー!あなたもすごく大事だよー!って、大人の眼差しと関わりを持つこと、そこは全ての子どもたちに平等でいたいな、と思いますね。