音人4月号の発売は本日3月5日なので、まだ読んでいない方はネタバレ注意です。

 

 

 五十嵐の声が出ないとかギターソロがイマイチ弾けていないとか

今までのライブでもそういう事は少なからずあった事だ。

でもそれでもsyrup16gのライブで感動せずにはいられない何かがあった。

確かに演奏が上手いとか歌が上手いとか、それに越したことはないだろう。

事実日本のロックバンドで卓越した演奏力を持ったバンドはたくさんある。

それでもなお、syrup16gのライブに感じる幸福感はそうしたものをいつも超越した部分で

もたらされる。

 

金光さんのインタビューの序文。

 

「そう、みんな知っているんだ。君の孤独も絶望も、悲しみも怒りもやるせなさも、

 ステージで必死にもがくその姿は、いつかの自分なのだということを。そしてそれは、

 カッコ悪く情けなくても、全力で生きようとした証なのだ」

 

 この序文が全てを代弁してくれている。

 出来上がった雲の上のロックスターではなく、客の前で内面の負の部分をあからさまにさらけ出してそれに耐え忍ぶかのように歯を食いしばりながら戦っているさま。

それは胸に手を当てれば過去の自分と幾つも重なり合ってしまう。

それをカモフラージュしたり取り繕う事さえできない、

いやむしろしない事を選んでしまう純粋さ。不器用さ。

そんな五十嵐がそこにいてくれればそれでもうシロップのライブの半分は成り立っていると

いっても言い過ぎではないと思うくらいに。

 

五十嵐はいつでも聴く者の合わせ鏡だ。

だから胸を掻きむしられるように切ないし苦しいし、全ての五十嵐の表にさらけ出た感情に共振する感覚に陥る。

一つ一つのプレイに五十嵐のステージで見せる不完全さに身に覚えのある心は他人事とは思えない。

シロップの優しさは、そうやって無様な内面を晒すことで常に生きづらい人たちの隣で生きることを肯定してきた。

どこかに必ず希望があることを目の前にかすかな光を灯すことで信じさせてきた。

それは今もずっとそのまま変わらずに続いている。

 

 新曲制作については曲はたくさん出来ていそうだが、歌詞がついて来ないようだ。

五十嵐は

 

「ネットの世界にもうすでに自分の言いたいことが溢れていてそれを自分が違う

言葉で歌って何の意味があるんだろう」

 

と話している。

だが、個人的には同じことを言うのでも五十嵐ならどんな言葉で歌詞を綴るのかを見てみたいと思う。

本当は心の中には伝えたいことはない訳ではなくて、

それを歌にしてしまうと周りに迷惑をかけてしまうという気遣い。

まぁ、まじめな五十嵐らしい葛藤を抱えているのが、読んでいるこちらも何とももどかしい気持ちになった。

元々言葉を選ぶ切れ味は天才的なはずなので変な足枷を自分から嵌めるのは

やめてもいいのになとは思ってしまう。せっかくの才能がもったない。

ここ最近darcやdelaidbackを聴いたりしているんだが、楽曲たちがいい意味で老獪な味も

纏ったりもして渋みも身に付けたりしていてとてもいい感じだと思うのでもう少し自由な思考で

歌詞が書けたらなと思う。でも、絶対妥協しないのが五十嵐でもあるからなー。

 

 何はともあれ、五十嵐と大樹ちゃん、キタダさんとの信頼関係がとても良好であり五十嵐の口から2人を「味方」と呼んでいるのに思わす顔がほころんでちょっと泣きそうになった。

そして、五十嵐が今もライブがあまり好きではないにせよ、ライブの中に自分の存在する場所がありそんな場所があることがいかに幸福であるかに気付いてくれて本当に良かった。

 

一緒に歳を重ねていきましょうと言った五十嵐が

 

「もう、ひとりも脱落者を許しません」

「僕もお客さんの中に、あの頃の僕がいると思って唄ってます」

 

こんな力強い言葉を言ってくれた。

全然諦めてなんかいない。この事実に何より安堵した。

そして

今まさに音楽ででしか救われない運命の五十嵐が、音楽によってsyrup16gとして救われていく

軌跡を私たちは見せてもらっているのかもしれない。

長年シロップの曲を聴いてきて、五十嵐がそこに至ったことをとても嬉しく思う。

 

何やら今年から来年に向けて「LIVE HELL-SEE」的な物がありそうだし、

新曲の期待も持てそう。

 

翌日の

「あきらめない方が 奇跡にもっと近づく様に」

 

シロップのこの先はまだまだ続く。

「続く」事こそぷっしろ応援団の何よりの希望だ。

 

この先もますます楽しみだ。