今日はボジョレヌーボーの解禁日。

ご近所のご夫妻とご一緒にワインパーティお酒お酒お酒。 

 ほろ酔いで書くことかなぁと思いつつも/////.


さて、分かち合いには三種類の形態がある。

① 当事者だけのもの (peer-led self-help group)  ー bereaved family だけで行うもの

② 支援者(自死遺族当事者ではない人の方針・考えで、ファシリテート主宰する会
       ex. ボランティア、
          保健士さん、臨床心理士など精神福祉協会、心の健康センタ-など行政の人、
          和尚さん、牧師さんなど宗教者、

③ 混合 (支援者‐自死遺族ではないひと) + 自死遺族 

私が関わっている「分かち合い」のうち

ふたつ が当事者だけのもの で  二つが 混合 である。

参加者(つまり 遺族のひと)は 断然 当事者だけの集まりがいい、とおっしゃる方が多い。

とても理解できる。

ひとつ分かち合いを舞台に起こったエピソードをご紹介する:数年前のことである。

居合わせた支援者(ボランティア)が、分かち合いの途中で、参加遺族の話をいぶかり、
しばらく廊下での押し問答の末、その遺族の方は、そのまま帰られた。

遺族参加者を帰らせたのは 遺族ではない支援者( ボランティアー 自称・セラピスト)

後日、追い返された遺族の方が、私の主宰する別の分かち合いに来られた。

「私は確かに自死遺族です。これが証明書です。 どうか分かち合いに参加させてください!」と

すがるようなお目で 言われる…手には戸籍関係の書類と運転免許証。

いま一度 書きます!
 
悲しみを抱えて、分かち合いに重い足を運んできた自死遺族を

閉めだしたのは セラピストを自称する「支援者」です!!!

分かち合いを仕切るセラピストが 自分の意に沿うかどうか判断し、振り分け、
排除し傷つけるーこれはちょっと首を傾げてしまう。

問いただしたところ、「場の安全を守る」、さらに「会の主旨」に合わないから、だそうだ。
さらに、「戸籍関係の書類を手に現れるのは異常であり特殊な遺族だ。」と切り捨てるように言った。

私の見解は違うーその人は、悲苦に追い詰められ切羽詰まっていたのだ、と思う。
私は、その追い出されたという遺族の人の帰宅の道がどれほど孤独感を募らせたか案じた。

この会の主旨は 深い悲嘆と苦しみのいる死別の悲嘆の語り合いの場。

この手の支援者は、「分かち合いの場を守る」というのを隠れ蓑に、参加遺族を怒鳴りあげ、場を凍らせることもよくある。

こんなおかしなことが 自死遺族ケアの現場でまかり通るこの不条理さを知っていただきたい。

このエピソードは、自死遺族に対するスティグマが根柢にあると私は考える。

こんなエピソードは枚挙にいとまがない。 

私はこの手の不条理さに唇をかんでいる。