昨日(8月4日 土)は、東京の NPO 生と死を考える会 の分かち合いで上京しました。
私は、この会の中で、家族の自死の悲しみを分かち合い、デーケン神父様のもとで、改めて「生きる」道筋を探してきました。
私の喪の道にとっては、深い意味合いと大きな位置づけとなっている会です。
2005年夏、私はここに初めて「自死遺族に限定した」分かち合いを立ち上げ、今も関わっています。
昨日は、炎暑のせいか、いつもほどの人数ではなく、静かな語り合いができました。
さてこそ、時々、はたと考えさせられる質問にあうことがあります。
今日は、ひとり子を亡くされたお母さんからでした。
「生きていることに意味はありますか?」「何のために生きていくのでしょう?」と。
私は宗教者ではありませんし、哲学者でもありませんから、この問いへの答えは持ち合わせません、
また、私自身がずっと、愛する人に自死で去られていらい、ずっと問い続けているものです。
さて、生と死を考える会の事務所は 信濃町にあるのですが、この日はヤクルト戦のナイターがあったらしく
神宮球場へ向かう浴衣姿のお嬢さん方の姿がたくさん見られました。
ひらひらと金魚が泳いでいるような涼やかさと感じました。
浴衣姿の日本の娘さんたちって本当に可愛いですね。
とはいえ、この日も お嬢さんを亡くされたお母さんたちの参加者が何人かおられました。
恋人と手をつなぎ、はなやぐ若いお嬢さんたちの姿は、あのお母さんたちのお目に痛くなかったでしょうか。
もうすぐお盆です。 私の愛する家族もお盆には帰ってくるのかな?
菩提寺からのお便りを読みながら、ふとそんなことを考えました。
地上に生き残っている私たちは、ここで かの人が忘れられないように、自自身と愛する亡き人の足跡をわすれないために、生きている面もあると思います。
かの人を私が偲ぶ限り、彼は私たちの中で生き続けています。 私は、地上の生がある限り、彼の人生の『証し人』たり続けられます・
切なく哀しい証し人です。