他人の不幸は鴨の味
この言葉を聞いたのは、私が人生で一番 辛く苛酷な悲しみを与えられた直後である。子どもの幼稚園が一緒だった関係で知り合った人から。
どういうシチュエーションかも覚えている。
私の悲苦をみんなが「嗅ぎに来るぞ」という親切心からの忠告だった。
他人の不幸は蜜の味 という言い方もあるようだが、私はこの時「鴨」と聞いたような気がする。
親切心から出たのではあるが、この言葉は、私のこころを究極まで凍りつかせるに十分だった。
幸せと不幸せは 当事者が心の中で作るもの
私は、今となってみると、<し・あ・わ・せ> vs <不・し・あ・わ・せ>は 形而上的な表面に見られるものではないことを承知しているが、あの当時は いわゆる 幸福の条件と称されるものをすべて失ったと思っていたから余計に心身が凍りついた。
(事実として 愛する人を喪うという不幸は今も続いているし、かの人がもたらしてくれた有形無形のものすべてを喪失したのだから
今も悲しみも苦しみも変わっていないーただ、持ちこたえるだけの力を備えた自分に成るべく、
血のにじむ努力をしたから、今は生きていられる、と思っているが)
幸せ・不幸せほど主観的なものはない。 その人の心映えしだいだ。
グラス一杯のワインをー「もう一杯残っている、うれしい!」と感じるか、「もう一杯しかない」と嘆くか、
その人の心模様しだいで天地の差ほど違う。
言葉の残酷さ(彼女の意図はそうではないのだけれど) 事実であるだけに心身に刺さった。
あの時、あの言葉を聞いていたから、世間との対応を大過なく過ごしてこられたのか、
それとも 引きこもり状態になったのか、それはまだ結論は出ていない。
それでもあの言葉を聞いた時の衝撃を今も鮮明に覚えている。彼女のパーソナリティには一切関係ない。
こういう活動をしていると、まれに、他人の不幸の匂いを嗅ぎたがる人種に出会うことがある。
あ、決して「風の道」の周辺にそういうけしからぬ輩はいない。そこは言明しておきたい。
井上ひさしの短編 「しみ」の一節にあるように、「他人の不幸の匂いを嗅ぎたい」人は時々いる。
そういう人と話しながら、ああ、他人の不幸がおいしいんだな、この人は」と思い対応していることがある。
自死遺族として涙ながらに自身の体験を語りながらも、内なるところで、こんな不敵でしたたかな呟きをしている奴がいることをご承知おきください。
に・や・り! <礼!>
