ボクの苗字はちょっと変わっていて、あまりみかけることがない。
小学生のときも、他のみんなが持ち物に苗字と名前をしっかりと記入していたが、
苗字だけで充分だった。
だって、そもそも同じ苗字の人間が他にいなかったから。
それはある意味便利でもあり、寂しくもあった。
間違えられることがないということは便利。
でも、他の佐藤くんや鈴木くんたちのように、同じ苗字の人間が何人かいるのをみると、仲間を抱えているような感じもあって、うらやましかった。
そんなあるとき、小学生のボクは父に連れられて家族とともに岩手に行くことになった。
何でも、三陸地方のソコは、父方の祖父の出身地であり、親戚もいるのだとか。
休みの日に、青森県八戸市の実家からクルマで岩手へ南下していった。
三陸のリアス式海岸ならではの絶景をみながら、多くのトンネルをくぐり抜けた先にソコはあった。
岩手県普代村。
ソコがボクの先祖ゆかりの地だ。
クルマでちょっと集落へ入ると、あっちにもこっちにも、ボクの苗字と同じものが。
正直、子供心にうれしかった。
小さい頃の話だったので、今ではあまり記憶として残ってはいない。
しかし、家々の表札やお墓の苗字が同じだということ、よくある平家だか源氏の落人伝説があるということ(平泉から近い場所)、綺麗な海、、、この辺だけがおぼろげに記憶にある。
さて、今回の東日本大震災。
青森県八戸市にある実家はなんとか無事であったことは、先日の帰省で確認してきた。
そのときに、母に聞いてみた。
「普代村の方はどうだったの?」
「運送会社をやっている親戚の○○さんとこは、会社が津波で流されたようだけど、無事だそうだよ」
横浜に帰ってきてからも、普代村について調べてみた。
近くにある、あの万里の長城ともいわれた巨大防潮堤を備えた田老村の話は結構報道されている。10mの巨大防潮堤を備えた田老村でさえ、今回の津波は乗り越えて、大きな被害を与えたと。
その田老村からちょっとだけ北へ位置しているのが普代村。
巨大津波が襲ったことに間違いはないはずなのに、、、そんなに被害がなかったということ???
やっと、その答えをみつけた。
読売新聞のWEB版YOMIURI ONLINEにある記事を紹介。
↓
-------------------
津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にある普代村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った。
村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が「15メートル以上」と譲らなかった。
「これがなかったら、みんなの命もなかった」。太田名部漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は高さ15・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を見上げながら話した。
津波が襲った先月11日、店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が食い止めてくれた。堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが、足もとがぬれることもなかった。
村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、人口約3000人は県内の自治体で最も少ない。海に近く狭あいな普代、太田名部両地区に約1500人が暮らし、残る村人は高台で生活している。普代地区でも高さ15・5メートル、全長205メートルの普代水門が津波をはね返した。
防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老地区の防潮堤(高さ10メートル)を大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。
村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で計439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が「15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。
今回の津波で、宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、数百人の死者・不明者を出した。岩手県全体で死者・行方不明者は8000人を超えた。
普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり、船の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。深渡宏村長(70)は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。まず村の完全復旧を急ぎ、沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。

(2011年4月3日22時05分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110403-OYT1T00599.htm
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小学生のときも、他のみんなが持ち物に苗字と名前をしっかりと記入していたが、
苗字だけで充分だった。
だって、そもそも同じ苗字の人間が他にいなかったから。
それはある意味便利でもあり、寂しくもあった。
間違えられることがないということは便利。
でも、他の佐藤くんや鈴木くんたちのように、同じ苗字の人間が何人かいるのをみると、仲間を抱えているような感じもあって、うらやましかった。
そんなあるとき、小学生のボクは父に連れられて家族とともに岩手に行くことになった。
何でも、三陸地方のソコは、父方の祖父の出身地であり、親戚もいるのだとか。
休みの日に、青森県八戸市の実家からクルマで岩手へ南下していった。
三陸のリアス式海岸ならではの絶景をみながら、多くのトンネルをくぐり抜けた先にソコはあった。
岩手県普代村。
ソコがボクの先祖ゆかりの地だ。
クルマでちょっと集落へ入ると、あっちにもこっちにも、ボクの苗字と同じものが。
正直、子供心にうれしかった。
小さい頃の話だったので、今ではあまり記憶として残ってはいない。
しかし、家々の表札やお墓の苗字が同じだということ、よくある平家だか源氏の落人伝説があるということ(平泉から近い場所)、綺麗な海、、、この辺だけがおぼろげに記憶にある。
さて、今回の東日本大震災。
青森県八戸市にある実家はなんとか無事であったことは、先日の帰省で確認してきた。
そのときに、母に聞いてみた。
「普代村の方はどうだったの?」
「運送会社をやっている親戚の○○さんとこは、会社が津波で流されたようだけど、無事だそうだよ」
横浜に帰ってきてからも、普代村について調べてみた。
近くにある、あの万里の長城ともいわれた巨大防潮堤を備えた田老村の話は結構報道されている。10mの巨大防潮堤を備えた田老村でさえ、今回の津波は乗り越えて、大きな被害を与えたと。
その田老村からちょっとだけ北へ位置しているのが普代村。
巨大津波が襲ったことに間違いはないはずなのに、、、そんなに被害がなかったということ???
やっと、その答えをみつけた。
読売新聞のWEB版YOMIURI ONLINEにある記事を紹介。
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津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にある普代村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った。
村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が「15メートル以上」と譲らなかった。
「これがなかったら、みんなの命もなかった」。太田名部漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は高さ15・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を見上げながら話した。
津波が襲った先月11日、店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が食い止めてくれた。堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが、足もとがぬれることもなかった。
村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、人口約3000人は県内の自治体で最も少ない。海に近く狭あいな普代、太田名部両地区に約1500人が暮らし、残る村人は高台で生活している。普代地区でも高さ15・5メートル、全長205メートルの普代水門が津波をはね返した。
防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老地区の防潮堤(高さ10メートル)を大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。
村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で計439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が「15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。
今回の津波で、宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、数百人の死者・不明者を出した。岩手県全体で死者・行方不明者は8000人を超えた。
普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり、船の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。深渡宏村長(70)は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。まず村の完全復旧を急ぎ、沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。

(2011年4月3日22時05分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110403-OYT1T00599.htm
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