「私を捨てないで」 と
憐れみに ただすがりついていくばかりじゃなく

「こいつは、自分が守って幸せにしてやらなくちゃ」 と
逆に 黙って放っておけなくなるくらいに
「こいつを、他のヤツなんかに渡してたまるか」 と
逆に 向こうから思わせるくらいに

本物の幸せを与えることのできる 本物の神様に
逆に 惚れさせるくらいに

本物の いい女になれ



昔から、ぐずぐずとくじけて流されそうになる時、自分を叱咤激励する時、
しっかりと顔を上げて自分の背筋を伸ばしたい時に、自分に強く言い聞かせていた気持ちです。
これからもずっと、これくらいの強気な謙虚さ("謙遜"とはあえて意識して使い分けています)で、
神様に向かって歩き続けられるように、改めて自分の肝に命じていきたいです。
バレンタインデーチョコが店頭に並び始めたのを見て、こんなことを思い出して書いてみました。
(ちなみに、今の私の目標とする女性はルツです)

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スプーンは 何かの下に入ってすくいあげる道具
イエス様は 全ての人間の下になったお方
だから どんな人をも すくう(救う)ことができるんだよね

──
私も誰かのために、このすくいのスプーンを使いたくなるほどの、天の父の作る料理になり、
その人の口の中に入れてもらえるものになれますように
イエス様とともに、生かせる素材として、用いてもらえるものになれますように

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あなたが遠くで 笑顔を見せてくれた

それが見られて 私は なんだか嬉しかった

私など あなたの視界の中にはいなくて

別の人のために笑ったのでも

私の視界の中で笑ってくれたことが 嬉しかった


ね。神様。
あなたもこんなふうに私のこと、見ててくれてたんだよね。
私は今、あなたをきちんと自分の視界に映して、あなたに向かって、
笑顔を見せていられていますか?


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たとえ 60億の人間が私を捨て 私の敵になろうとも

天地を創造した 本物の生ける神が一人
私を理解してくれて
愛し 教え 諭し 慰め 励まし 守り 導き
私を捨てず 味方でいてくれるなら

私は 絶対 無敵でいられる



試練の最中にも、これくらいの強い気持ちでしっかりと主に向かって歩むなら、
逆に主は、すごい人の味方を送ってくださいます。
だから、実際に60億に捨てられることはないという現象が起こります。
主は、真剣に寄り頼んでくる者を、絶対に裏切らない。


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ふと 思い出したかのような 懐かしい便り
あなたの面影を 思い出してみる

あれから 何年 経ったのだろう
もう あなたの年齢も忘れてしまっていた
お互い 名前と 出会ったという記憶だけ残して

あれから いろんなことがあったの
私 あの頃より 少しは大人になった?
会って そう 聞いてみたかったけど
もう 永遠に 思い出の人になってしまったのね

あれは あなたの 最後の記憶
私に 忘れてほしくないのね
確かにめぐり逢ったという真実を
刻みたかったのね
どうか 淋しがらないで
あなたのことは 心にずっと残るから

一度ぐらい 夢の中にでも 会いにきてよ
あの頃の面影を残したまま
時を止めてしまった人
もう 永遠に 思い出の人



これも、だいぶん昔に、クリスチャンになる前に書いたものです。
どうしても今ここに持ってきたくなって、恥を捨ててひっぱりだしてきました。

私には、この年賀状の季節に、必ず思い出す大切な友人がいます。
この方は、私が高校生の時に、専門学校の体験入学で出会った方でした。
この方は数年勤めていた仕事を辞めて、自分の夢に向かって新しいスタートをきるんだと、
いろいろ人生の先輩として私に話をしてくれました。
私は結局 別の進路を示され、そちらを歩んだのですが、
この時の縁をきっかけに、この方とは何度か手紙を交換しあいました。
その後、お互いに忙しくなって、ずっと音信不通になっていたところへ、
7年近くも経ったある年に、突然思い出したかのように年賀状が届いたのです。
私は懐かしくて、お礼のお返事の年賀状を送りました。
そして、近いうちに電話でもしようと思っていたのです。
でも、その方は、そのあとすぐに一ヵ月もしないうちに、突然の病気で亡くなってしまいました。
ご家族が私の年賀状を見て、友達だと思って連絡をくださったので、
この最後の年賀状の交換がなければ、それさえも私は知らずに、
この方のことは忘れ去ってしまうところでした。
もちろんこれは、私がクリスチャンになる前の出来事ですが、
神様が私のために、この思い出に関わってくださったと信じています。

「今あるものを、今あるうちに、心を尽くして大切にせよ」
良いことも、悪いことも、嬉しく楽しいことも、つらく苦しいことも。
今自分に関わってくれている人たちのことも。
この方のおかげで、この思いが、私の基本となりました。
今は、この基本に「主にあって」という言葉が付け加えられました。
心から、主に感謝します。
もちろん、今もなお私の中に生き続けてくれているこの友にも感謝し続けます。
この感謝は、私が必ず天国まで持っていきます。

[追記]
今、その思い出の年賀状を出して見てみたら、平成10年の年賀状でした。
ちょうど10年経ったのですね・・・やはり今、ここに謹んで置かせていただきます。
ありがとう。今も忘れてないからね。
あなたのご家族の祝福を、イエス様のお名前を通して祈れるようになったよ。
これって、かなり上出来でしょう? あなたのためにできること、まだあったよ。
だから、喜んで安心しててね。


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ずっと背負っていくだろうはずの
未だ癒えずにあった 心の傷のいくつか
心の隙間に 浮かび上がるたびに
後悔と 疼きとを覚えていた

いつの頃からか 傷を思い出す日が
少なくなっていたことに気づく
それは 主への祈りと感謝を思うことが
その時間に遷り変わったから

主のくびきを 感謝して背負おう
主のくびきは負いやすいと
主は約束してくださっているではないか

証しがまた一つ増えた
主を賛美しよう



これは、2003年頃、私がクリスチャンになって3年目になろうかというくらいの時に
書いてあったものです。
でも、誰に見せるわけでもなく、ただ神様に見せられればいいかという感じで、
自分のパソコンのデータの中に、置いてあったものです。
それが、こうしてこの場で、堂々と主の名前を出して話すことができて、本当に嬉しいです。

それからちなみに、プロフィール画像に使っている写真は、2002年の春に、
デジカメで撮ってあった写真です。
散歩の途中の道端で摘んできた名前もわからない小さな花を、
花瓶がなかったので、使っていない湯飲み茶碗に飾りました。
下に敷いてある布も、ただのはぎれ布です。
それでも、なんだか気に入って、これもまたずっと自分のパソコンのデータの中にありました。
これを、今年、こんな場所で思い出して使いたくなるとは、夢にも思っていませんでした。
この時のために、もう主は私に準備をさせてくださっていたのかなと思えるのなら、
人によっては、くだらないと思うことでも、主を信じる私たちにとっては、
本当にすごい計画の中にこんなにもしっかりと守られているのだと、感謝が溢れます。
そして、今日の自分に起こる何事も、ますますきちんと大切にしていこうと、
明日以降の自分のために、主のために、目と心を開いていたいと思えてきます。

自分の過去の傷を、主への感謝で埋めて忘れていこうとする作業も、
自分に都合の悪いことばかりをそうしてはいけないですね。
人からされたことのみ忘れるべきで、自分の間違いは繰り返さないように忘れてはいけないと
思っています。
それでも、問題や悩みの渦中にあったら私だってこんなふうに明るくは言えないし、
そんなことで忘れられたら、今も苦しんでなどいないという深い深い傷を
今もなお背負っておられる方もいらっしゃるわけで、
私もそんな簡単に言うつもりはないのですが・・・
どうか、主にあって一日でも早く、その傷が主の御心に適う形で癒されていきますようにと・・・
心を込めてお祈りさせていただきます。

───
読んでくださってありがとうございました。
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あなたもあなたなりの
私にはうかがい知ることなどできない
数知れない いろいろなことがあって
今のあなたになったのだから

今あなたが固くもっているものが
今のあなたなりに譲れない大切なものなのだろうから・・・

最後までそれをもったまま終われるのなら
それもまた 幸せなことなのかもしれないね・・・

私の方が あなたよりもあとで
私はあなたを追いかけて やってきたはずだったのに
いつのまにか あなたは
別のところを歩く 遠い人になってしまっていたのですね・・・

道は無数にある
速度も人それぞれ
隣に近づく時は 気まぐれで一瞬
そして 必ず また離れていく

見える姿の距離も 見えない心の距離も
全てがもう遠すぎて 私にはもう届かなすぎて
私は もう黙って 背中を見送ることしかできないよ・・・

あなたが幸せなら 最後まで そのままで終われますように・・・
でも できるならそのまま最後になる前に 終わらないでくれますように・・・



下書きに寝かせてあったものを、ようやく気持ちを収めて完成させることができました。
人は、月日とともに変わっていく存在だから、長い年月が経つうちに、
その関係が離れてしまい、もうどうにもできなくなっていくということは、
残念ながらあります・・・
祈っても祈っても、もう自分はどう関わることもできないから、
あとは神様の御心にゆだねるしかない・・・
寂しいけれど、そういうことって、ありますね・・・
本当に自分は、なんの力もない小さな者です・・・

どうか、主が望んで、関わってくださいますように
見送った方の上に、主の祝福が、最後までありますように

もう二度と関わることはできない、遠くに住む、目標にしていたかつての方へ
最後の感謝と、さようならを・・・

───
ちょっとしんみりしてしまいましたが、読んでくださってありがとうございました。
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これは、私が教会には行くようになっていたけど、
まだ洗礼を受ける前の、まだ神様の子にはなっていなかった頃の話 ──


神様は、私たちを子供だと呼んでくれる。
その神様を、私たちはお父さんと呼ぶ。
イエス様は、長男だから、お兄ちゃんだ。
他の信者さんたちは、兄弟姉妹。
そんなみんなが集まる教会は、お母さん。

父なる神様。
母なる教会。
イエス様を長男に、私たちはみんな家族なんだね。


では、洗礼を受けてないけど教会に通っている自分は
どういう立場なのだろう?
はっきり言ってしまえば、ただの「他人の子」。

神様(父親)と教会(母親)は、優しく招いて、笑顔でもてなしてはくれるけど、
でも、最後の大事なところでは、結局 他の人様の子だから、
「申し訳ないけど、さすがにこれ以上は、うちの子たちと一緒には
扱うことはできないから・・・」 と言って、遠慮して遠ざかる一線がある。
この感覚って、普通の父親と母親も、当たり前に同じじゃないのかな・・・


そして、逆に考えてみる。
まだ洗礼を受けていない(正確には、受けたいとまだ思えていない)自分は、
「あんたは私の親なんかじゃない! 私はあんたを親とは認めない!」 って
両親に向かって言ってるってことと、同じことをしてるんじゃないの?
面と向かって我が子にそんなことを言われて、両親はどんなに悲しいだろう。
「父と母を敬え」って、そこからもう全然守れてないじゃない。
しかも、自分はそんな暴言を吐いてるのに、
してもらうことは他のお兄ちゃんお姉ちゃんや弟や妹たちと同じに扱えって言うのって、
なんか・・・違わない?

自分が親だったら悲しいくせに、そんなことも気づけてない。
そんなわがまま自分勝手な兄弟を見たら、
自分だってムカつくくせに、そんなことも気づいてなかった。

ああ・・・むちゃくちゃ最初っから罪人じゃん・・・


別に、お手伝いをよくするいい子にならなくってもいいんだ。
ただ、「あんたなんか親でもなんでもないんだ!」 って暴言を吐いている自分をやめて、
まずはただ、「お父さん」「お母さん」「お兄ちゃん」 って普通に言えるようになるだけでいいんだ。
それだけで、本当は充分なんだよね。

洗礼を受けることって、クリスチャンになることの最初の一歩って、
ただ、そういうことでいいんじゃないかと、私は思ってます。

───
読んでくださってありがとうございました。
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「今日はこれから○○をする」 「急だけどなんとかすぐにお願い」 と、
いきなり突然周囲に宣言し 一人ドタバタと始めても、
周囲は面食らって振り回されて困るだけで、
あんまり良い結果にならないことが多い。

「なんでそれ前もってわかってるのに、今日突然言うかな?」
「どうして、もっと計画的に準備しておかないの? こんなギリギリ間際になって!」
「こっちにだって、都合ってもんがあるのに・・・いつも自分勝手なんだから。
突然言われるこっちの身にもなってよ・・・」

こうならないように、ちょっと考えていることがあったら、
ただの希望や構想中・検討段階でもかまわないから、
前もって神様の耳に入れて伺いを立てておくことって
けっこう大事だと思う。
「言わなくてもわかってくれてるし、その都度なんとかしてくれるはずだから」 なんて、
実際にそうしてくれちゃうんだけれど、でもやっぱり、
神様の細やかな配慮に べったり甘えてばかりじゃいけないと思うの。

そうすると神様も、
「きみの気持ちはすでにわかっていたから、もう準備も完了していたのだけれども、
きみの方からもきちんと相談してきてくれて嬉しいよ。
それじゃあ、なおさら良いものを もっとたくさん用意しておかないとな」 と
さらに喜んで、前もっていろいろ万全以上のサポートをしてくれる。
神様はそういう仕事は一番得意だからね。

神様に 「報告」「連絡」「相談」「打ち合わせ」「根回し」。
社会人になった時に教わった大事なことは、
こんなところでもしっかり役に立っている。



─ ブログ村参加のごあいさつ ─

昨年12月に、ブログ村のクリスチャンコミュニティ のことを知ってから、
参加されている皆さんのお話を、うなずきながら、新しく教えていただきながら、
尊敬の目で毎日拝見していました。
そして、この私自身はどうするべきか、ここ一ヵ月近くの間、ずっと考え祈り、
神様に伺っていました。
私は、そもそも人に自分を宣伝できるほど、自分はできた人間ではないと思っているので、
うかつに参加することはできないよなと、かなり強く思っていました。
でも、一方で、聖書はキリストを宣べ伝えることも大事と言っています。
積極的に参加して行った方がよいのかなという思いと、
参加できるだけの資格がないから・・・という消極的な思いで、ずっと大きく揺れていました。

そんな揺れる思いの中、毎日のように、祈り伺い続けるうちに、少しずつ気持ちが動いてきました。
私は、本当に恐れの多い気弱な者です。でも、もう少しタフになりたいから・・・という思いが
ある時生まれてきて、日に日に強くなってきました。
それによって、最終的に参加する方に心を決めることができ、30日に仮登録を行い、
おかげさまで、今日、新年のスタートの日に、こうして参加のごあいさつを書くことができました。

まだまだ不安や恐れは大きく、失敗に落ち込むことも多々あると思いますが、
それらも含めて全て益としてくださるように、神様はすでに、
みこころに合わせて準備を万全に整えてくださっているはずです。
私はそれを一歩一歩、大切に歩いて行ってみたいと思っています。
私の過去記事のとおり、私は本当に未熟で弱くて何もできない小さい者ですが、
せいいっぱい主に向かって、今年も成長させていただきたく思いますので、
どうぞよろしくお願い申し上げます。

───
なぜかもうすでに35位に・・・(驚;;)
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