中国の武侠作家の金庸を読み出して一年以上になるけれど、読み始めた当時Wikiでサラッとどういう人か見たときはとくに感じることはなく、ただ作品が面白すぎるから夢中で読んでただけで。

改めて昨日、金庸さんのWikiを見直したら、すごい感じさせられた。

作品がすごいだけあって人物もすごい方だなあって。
中国人の大物で中国共産党にあんまりぺこぺこしてないとことか。天安門事件にも抗議してたり。

~~~Wikipeより

浙江省海寧県袁花鎮の出身、祖籍は唐山で、明末 の文人で反 運動に身を投じた査継佐 を祖先に持つ。当初は外交官を目指し、中央政治大学 (現・台湾の国立政治大学 )で外交について学んだが、不正に抗議した舌禍事件が原因で退学を余儀なくされる。その後、杭州 の『東南日報』で取材記者や英語の国際放送受信の担当を経た後、蘇州東呉大学 法学院で国際法課程を修習した。

ほどなく金庸は、『大公報 』の電気通信翻訳の試験を受けて採用され、香港支社に派遣される。『大公報』の娯楽紙面である『新晩報 』が創刊されると、『下午茶座』の編集担当となり、林歓の筆名で映画評論の執筆を行った。

ちょうどその時、大陸では共産党 政権の誕生を迎えた。金庸は単身北京 に赴き、自分を外交官として採用するように申し出る。しかし、金庸の思想が共産党と相容れないものだったために、この申し出は拒否された。また、父が反動地主として逮捕される事件も発生する。

これによって外交官への夢を完全に諦めた金庸は香港に戻り、記者として復職した。その後、同僚であった梁羽生 が武俠小説の執筆を始めた影響もあって、1955年、『新晩報』に第1作である『書剣恩仇録 』を発表した。それを皮切りに、武俠小説 の執筆を開始し、一躍人気作家となった。1959年には独立して中道日刊紙『明報』を創刊するが、その原因は『大公報』の左傾化への反発である。

以降、『明報』に社説と武俠小説を毎日執筆連載して、人気作家としての地位を不動のものとすると共に、かつて属した『大公報』などの左翼系各紙と、共産党の施政を巡って激烈な論争を繰り広げ、文化大革命 勃発時には、その真の目的が劉少奇 打倒にあることを、終末期には当時権力の絶頂にあった林彪 の失脚をそれぞれ予言し、政治評論家としての才能も遺憾なく発揮した。1972年には『鹿鼎記 』の連載終了と共に、突如作家としての断筆宣言を行って世間を驚かせた。

香港の中国への返還が決まると、香港基本法 起草委員会の委員に、中国側の推薦で任命されたが、返還後の香港の政治体制について、金庸が示した方案は、香港の政治的安定を優先させ、中国側の意向に沿ったものだったために、民主派から激しい非難を浴びた。ところが、1989年に天安門事件 が発生するや、金庸は抗議して即座に委員を辞し、再び世間を驚かせた。

その後、金庸は『明報』を辞し、持ち株の大半を売って引退した。しかし、引退後もオックスフォード大学 の客員教授に選ばれたり、香港特別行政区 準備委員会に香港側の委員として参加するなど、その活動は衰えていない。1999年より浙江大学 の人文学院長を務めた。2002年には、15作品ある自身の武俠小説の改訂を開始した。~~~



 イスラム国(イラン・シリア・イスラム )通称ISIS、人質で殺害された後藤さんのこと、ネットでも知り合いからでも自己責任やからころされてしょうがないって意見と助けたい、助けてあげてほしいって意見と両方見ます。うすーい知り合いは、おとといその話題僕が出したら、あんんあに世間を騒がせて一人、二人の人が日本中を騒がして迷惑かけたってこと言ってたなあ。
周りとの協調性を大切にする、お互いに迷惑かけない、。こういうことだけを最高の教え?道徳基準の最高において生きてる人はなにか、なんというか。協調性や互いに迷惑をかけないもとても大切なこと十思う。、でもそれだけだと。生まれた時代や国によってはそういう価値観を最高にしてるだけでは全体、国家自体が間違ってる場合、その間違いに大い協力して、正しいことを言う人を非国民、全体の和を乱す悪い人として、迫害する側に簡単になってしまう。

 後藤さんは立派な方だとわかります。思います。

腹筋と立禅っぽいことしてるけれど、それ以上に最近食欲増えた。 体重増えたね(^▽^;) 甘いもの毎日食べてる。糖分糖分。