竹原信一さんの数日前のブログ | ラッキィ 

    本音とタテマエ

     日本には二種類の言語が混在している。単純な言い方をすれば本音とタテマエ。

    人々は立場によってその意味をすり替えながら使っているので、しまいには何の為に話をしているのかがばれてしまう。だから途中で「あなたとは考え方が違う」などと切り上げるから本質的な対話にならない。権力を持った側の役人や議員たちがそれだ。


    ここまで書いてつくづく思う。

    考えれば考えるほどバカバカしい世の中に生まれてしまったものだ。


    この強盗国家は民衆が互いを監視し、浪費し、疲弊しながら喘ぎながら国家にしがみつく事を求めている。 にもかかわらず民衆は国家が自分たちを守ってくれていると勘違いし、国家を守るために自ら戦場に赴く。いい加減に夢から覚めてもらいたい。

    国民の代わりに国家が戦場に行ったことがあるか。


    国民を戦場に煽ったのは政府、新聞、政治家、隣組、などあらゆる権威と権力が国民を戦場に導いたのである。戦後になっても同じような者たちが再度、権力を握ることになった。

    同じ種類の人間が同じ手口で民衆をあざむき続けている。権威の側に居て民衆の反応を見ながら演技を続けている。


    その手の人間たちは同じ種類の臭いを発している。いつも何か権威くさいもの、嘘くさい臭いを全身から発するのでわかってしまう。

     その臭いを先月、特別授業をさせてもらった大学でも感じた。カフェでも、教室でも、それを感じさせる学生が少なからず居た。真実を求める覇気よりも、そこに居る事へのプライド、役人や政治家に似た欺瞞の臭いだ。同じ種類の者が集まるので当人たちは気づいてはいないかもしれない。考えてみれば、仕事をせずに大学生をするというのは特権だ。能力と得た権威とのギャップの臭い、言い換えれば劣等感の裏返しのように思える。


    もとより、大学は真実を探求するところではない。権威主義的発想で作られているので、手間がかかりすぎ、最先端のものも時代遅れになってからスタートする。大学の勉強の多くは社会で通用しない。お古になったものを覚えて、試験を受けて、学校商売に貢献している。その見返りに卒業証書を受け取る。少しぐらいのプライドおまけはあってよいかもしれないが、実社会ではそれを持て余す。


      教員が率直に真実を語ることはとても難しい。教師も国家から頂いた資格を元手に就職している。国家と同じような精神性や判断志向を持つことが評価を受ける条件である。国家は、生徒が社会の真実を知り、これまでの権力に刃向う人間に育ってもらっては困る。

    私の授業ができたのは外部講師の特別授業であったからで、教員がこの手の話をすれば大学から注意を受けることになる。この国の官僚、役人は理由を言わずに感じさせて、補助金や研究費を削るということをする。


     教員は生徒や保護者に向かって、本心も真実も事実も語ってはならない、言えない職業である。

    「先生は労働者です、学校は就職先です。私は国家に雇われました。私たちは日教組の立場上、労働の被害者です。先生は実社会が嫌いです。」

    「なぜ、こんな授業をさせるのか良くわかりませんが、とにかく試験の成績を上げろと言われています。」などと語れば権威がなくなってしまう。